その肘をつく姿勢が、ゲームのコントローラーを操作するのにぴったりなんですね。力を抜いて座るリハビリになると整形の先生からお墨付きをいただいたのをいいことに、闘病中はゲーム三昧。あの時にもし英語の勉強でもしておけば、今頃は世界進出もできたかなと。(笑)

両親には、本当に心配をかけたと思います。病状が落ち着いていない時は塩分コントロールも重要になるので、母は私の病気をきっかけに減塩食の勉強をしてくれました。主治医も理解のある先生だったので、病院ではしっかり減塩の食事を摂りながら、トータルの分量を守れるのであれば一品は差し入れしてもいいと許可してくれました。

母が毎日一品を届けてくれて、具だくさんの野菜スープ、エビカツサンド……。とにかく嬉しかったですね。自宅療養中も、納豆にシラスとカボス汁を混ぜて薄味でも美味しく食べられるようになど、工夫してくれました。

父も当時は働き盛りで忙しかったはずなのに、仕事がない日はいつも母と病院に来て、面会時間ぎりぎりまで一緒にいてくれて。「俺が元気で仕事をしているうちは何も心配いらないから、焦らずじっくりとな」。この父の言葉も大きな支えになりました。

20代のすべてを病気で費やしたことに、「よく耐えられましたね」と言われます。たぶん最初から「12年かかる」と言われたら耐えられなかったでしょう。最初はまず2ヵ月、再発してもう2ヵ月、また再発して次は3ヵ月、その結果の12年だったわけなので。

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