よく「引き抜き」をした秀吉

数正が豊臣家に奔ったのは、徳川家よりも豊臣家の方が魅力的だったから。それに尽きると思いますね。難しく考えることは、なんにもない。

秀吉という人は、しばしば、他家の家臣を引き抜きます。

たとえば、率いる兵は3000人、と条件を揃えて戦ったら、おそらく戦国随一の強さだろう、と評される立花宗茂。

この若者は大友家の部将として、立花山城に籠もり、商都・博多を島津家の攻撃から守り抜きました。

島津氏を降伏させた後、秀吉は「天晴れなやつだ!」と宗茂を大友家から引き抜き、豊臣家の直臣にして、筑後・柳川12万石を与えました。

芳年『月百姿 しつか嶽月 秀吉』,秋山武右エ門,明治21. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-08-29))

島津家では伊集院忠棟が豊臣政権に重用されて、日向国の庄内の地で8万石。豊臣家と島津家に両属するようなかたちになりました。

逆の例もあります。大河ドラマ最高視聴率といえば、渡辺謙さんの『伊達政宗』。あのドラマで実に良い味を出していたのが、いかりや長介さんでしたね。

彼が演じる老臣・鬼庭左月齋の息子・綱元は、秀吉の大のお気に入り。秀吉はしきりに「ウチに来い」とやります。

でも綱元は「私の主人は政宗一人です」ときっぱりと断っています。秀吉の籠絡術、失敗も、もちろんあるんです。