名胡桃城奪取事件
これによって長年の懸案であった沼田領問題も、無事に決着したかにみえた。ところが、十月末になって沼田城の猪俣邦憲が、真田方の名胡桃(なぐるみ)城(群馬県みなかみ町)を奪取するという事件が起こった。
真田信幸はさっそくそれを家康に報じ、十一月三日にこれを受け取った家康は、富田・津田両人を通じて秀吉に急報した。
秀吉の怒りは激しく、北条方の弁明の使者石巻康敬は三枚橋(さんまいばし)城(静岡県沼津市)に留め置き、十一月二十四日には氏直宛に五ヵ条からなる最後通牒を送りつけた。
この期に及んでも、北条方では事態の深刻さを認識できず、十二月七日付の氏直条書ではなお強気の弁明を行なっていた。秀吉はこの条書の到着以前に、それを見越して十二月に入ると北条氏の討伐に踏み切った。
家康は急遽上洛し、十二月十日に聚楽第で小田原攻めの軍議に与(あずか)った。そこで家康はおよそ三万の軍勢を率いて先鋒となり、翌年正月二十八日に出馬することになった。