家康・秀吉の出馬
天正十八年(一五九〇)に入るといよいよ小田原攻めとなるが、それに先立ち、家康は三男ではあるが嫡男とされた長丸(のちの秀忠)を、正月三日に駿府から上洛させ、豊臣政権への服従の態度を明確に示した。
ただこの上洛は、長丸と織田信雄の娘で秀吉の養女になっていた当時六歳の小姫君との婚姻も目的であった。二人は正月二十一日に聚楽第で祝言をあげるが、この婚姻が長く続くことはなかった。小姫君が翌年七月に死去したからである。
なお、この間の正月十四日には、家康の正妻旭姫が聚楽第で死去した。また、長丸はそのまま人質として上方に残されることはなく、秀吉の配慮で帰国することになった。
家康の当初の出馬予定は雨天のせいもあってやや遅れ、駿府から出馬したのは二月十日であった。この出陣に際して、家康は一五ヵ条の軍法を定め、出陣する部将たちに周知した。
三月一日には秀吉も京都から出馬し、二十七日に沼津に着陣した。これを受けて、すでに山中城(三島市)や韮山城(伊豆の国市)への攻撃態勢を整えていた豊臣軍は、二十九日にいっせいに攻撃を開始した。山中城は半日で落城し、その後豊臣軍は小田原に向けて順調に進軍した。