北条氏の滅亡

四月以降、豊臣軍は小田原城を完全に包囲し、秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に石垣山城(神奈川県小田原市)を築き、ここに本陣を移した。

「石垣山一夜城」として知られているが、本格的な築城が行なわれ、東国では最初の石垣城であった。家康が布陣したのは、小田原城の東方になる酒匂川方面であった。

小田原攻めの軍勢は二〇万ともいわれ、しかも豊富な補給物資をもって攻め込んできたのであるから、北条氏は豊臣政権の実力をまったく見誤っていたといわなければならない。

北国勢の上杉景勝・前田利家らも関東に入り、北条方の諸城をつぎつぎに攻略した。九鬼・毛利・長宗我部氏らの水軍が、兵粮米などを運び込むとともに、海上の封鎖も行なっていた。

追い詰められた北条方は、まず六月二十四日に韮山城の氏規が家康の陣所に来て投降し、ついで七月五日には、当主氏直が滝川雄利の陣所に駆け込んで降伏し、開城することになった。

こうして、初代早雲以来五代、100年にわたって関東に雄飛した北条氏も、ついに滅亡したのであった。

秀吉は氏政・氏照兄弟と重臣二名に自決を命じ、氏直は家康の娘婿ということで助命され、高野山へ追放となった。氏規もこれに従って、高野山に赴いた。

なお、氏直は翌天正十九年(一五九一)に嗣子なくして死去したため、近世の北条氏は氏規の系統で存続し、のちに河内狭山藩(大阪府大阪狭山市)で一万石を領した。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。