竹千代時代の家康。長く仕えてきた石川数正がなぜーー(教導立志基」 「卅一」「徳川竹千代君」  (絵:小林清親/版元:松木平吉)東京都立図書館

松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第33回では、小牧長久手で秀吉(ムロツヨシさん)に大勝した家康だったが、秀吉は、織田信雄(浜野謙太さん)を抱き込んで和議を迫り、人質を求めてきた。その上、秀吉が関白に叙せられたという知らせが浜松に届き――といった話が展開しました。

一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。第8回は「なぜ石川数正は出奔したのか」についてです。

石川数正出奔

天正十三年(一五八五)十一月十三日に、徳川氏の重臣で岡崎城代であった石川数正(前年あたりに康輝と改名しているが、本稿では数正のままとする)が、こともあろうに秀吉のもとへ出奔するという大事件が勃発していた。

真田昌幸はその事情を、十一月十九日付の秀吉からの書状によって知るところとなるが、そこでは「数正が去る十三日に足弱(老人や女・子供)などを引き連れて、尾張までやってきた」といっている。数正はその後京都を経て、秀吉がいる大坂城に上っている。

数正は、家康の竹千代時代には随行者の筆頭として近侍し、叔父の石川家成が永禄十二年(一五六九)に懸川城代になると、代わって西三河の旗頭となり、また数々の合戦で戦功をあげてきた。

その数正がこのような叛逆に及んだのは、どのような事情があったからであろうか。