徳川家中で次第に孤立
結論からいうと、徳川氏内部で秀吉に対する対応の仕方について、融和派と強硬派との外交路線上の対立があったことである。
数正は天正十一年(一五八三)に初めて秀吉のもとに遣わされ、賤ヶ岳の戦勝と越前の平定を賀し、大名物初花を贈った。それ以後もたびたび秀吉への使者になり、秀吉の実力を熟知していた。
とりわけ天正十三年になると秀吉は関白に就任して天皇の権威を背景とした政権を確立し、また小牧・長久手の合戦時に織田・徳川連合軍に与していた諸勢力が、つぎつぎと秀吉の軍門に降るという現実があった。
数正は徳川氏の安泰を図るためには、秀吉との講和を進めることが必要だと考えており、その意味で融和派の代表であった。
これに対して、酒井忠次や本多忠勝らの強硬派は、三河譜代の気概や長久手合戦での戦勝などで、秀吉に屈することを潔しとしなかった。徳川家中では、この強硬派が圧倒的に多かった。
数正が取り持っていた松本城の小笠原貞慶が秀吉方に奔(はし)ったことも、数正の家中での発言力を低下させることになった。
こうして、数正の立場は徳川家中にあって次第に孤立したものになっていったのである。