緊急の対応

酒井忠次と並び両宿老ともいうべき数正の出奔は、徳川氏にとってはもとより大きな打撃であった。この緊急事態の発生は、ただちに各地に伝達された。

(教導立志基」 「卅一」「徳川竹千代君」  (絵:小林清親/版元:松木平吉)東京都立図書館

深溝(ふこうず。愛知県幸田町)の松平家忠は当日亥の刻(午後十時)に注進を受け、ただちに岡崎城へ駆けつけている。

翌十四日辰の刻(午前八時)には、吉田城(豊橋市)の酒井忠次が三河国衆とともにやってきた。十六日には家康も浜松城から岡崎城に到着し、ここで緊急の対応策が諮られた。

その結果、(1)防衛体制を固めるため、岡崎城をはじめとする領国内諸城の改修を進める。(2)徳川方の軍事機密を熟知する数正であったため、武田氏の軍書を収集して軍法を改正し、三備(みつぞなえ)の軍制を再編成する。(3)三河国衆の婦女子は、岡崎から浜松に避難させる、などの措置をとることにした。