運を味方にした家康

ところが、家康にとってはまさに天佑ともいうべく、その直後の十一月二十九日に天正大地震が発生したのである。

『家忠日記』の同日条によれば、「大なえ(地震)が亥の刻にゆれた。前後を覚えないほど鳴動し、小ゆりは数を知らず」、 晦日の条でも「なえがゆれた。丑の刻(午前二時頃)にまた大なえがゆれた」といっている。

十二月に入っても余震は続いたが、そのような中でも、家忠は連日城普請に当たっていた。

実はこの大地震は、三河では城普請を継続できたように、それほど大きな被害ではなかった。むしろ激甚地として被害が大きかったのは、畿内から尾張・美濃、北陸方面にかけてであった(矢田俊文『近世の巨大地震』)。

まさに秀吉の勢力範囲で、大きな被害となったのである。

このため、秀吉による「家康成敗」は予定どおりに実行することがむつかしくなり、なおしばらくは「家康成敗」を標榜しつつも、次第に融和政策へと転じていくことになった。

家康は運も味方にして、大きな危機を回避したといえよう。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。