秀吉の「家康成敗」

第一次上田合戦での敗北、重臣石川数正の出奔という苦難の最中に、さらに追い打ちをかけるように、家康に大きな危機が襲ってきた。

先の天正十三年(一五八五)十一月十九日付真田昌幸宛秀吉書状の内容は六ヵ条からなるが、一条目で石川数正が出奔した事情について述べ、ついで二条目で秀吉は重大なことを述べている。

すなわち、家康が人質の提出を拒んだため、秀吉は軍勢を出して家康を成敗することに決めたといい、ただ秀吉の出馬は今年はもう日がないので、来春正月十五日前に出馬するといっている。

この「家康成敗」が本気であったことは、十一月二十日付で美濃大垣城主一柳直末に宛てた秀吉書状でもほぼ同様の事情を述べ、来春正月十五日以前に大垣城へ出向くので、油断なく陣の用意をするよう申し付けていることからも明らかである。

もしこの秀吉による「家康成敗」の出馬が実行されたならば、家康は秀吉によって軍事的に屈服させられ、仮に滅亡は免れたとしても、大幅に所領を削減され、どこかへ転封(てんぽう。国替え)されることになった可能性が高い。

秀吉からの人質提出の要求を拒み、敵対の色をあらわにしたため、家康は大変な危機に直面することになった。