出奔の直接の契機

出奔の直接の契機になったのは、新たな人質問題であった。

小牧・長久手合戦の和睦で次男の於義伊(おぎい)を証人(人質)として送ったものの、上洛・出仕のない家康に対して、秀吉は表裏あるものとみなし、数正を通じて新たに重臣たちの人質提出を求めたのである。

『家忠日記』によれば、十月二十八日に国衆たちは浜松城に招集され、人質を出すか出さないかにつき談合(相談)したところ、強硬論が圧倒的に多く、結局出さないことに決した。

このため数正は徳川家中でまったく立場を失い、おそらくは秀吉からの事前の誘いもあって、翌十一月十三日に出奔するに至ったのである。

岡崎城からの出奔に際して、数正が徳川方の人質になっていた小笠原貞慶の子息を同道していることも、何らかの連携があったものとみなされるだろう。