変えるべきは、当事者か社会か

術後、チャーリイは望み通りの高い知能を手に入れた。だが、その代償として多くのものを失った。彼の変化に周りは慄き、敵意を向けるようになった。それまで見下していた相手が、自分には理解できない高度な会話を繰り広げる。その構図に、誰もが不快感を隠さなかった。手術に携わった教授たちにモルモットのように扱われることにも、チャーリイは耐え難い苦痛を感じた。

“ぼくは人間だ、一人の人間なんだーー両親も記憶も過去もあるんだーーおまえがこのぼくをあの手術室に運んでいく前だって、ぼくは存在していたんだ!”

チャーリイと私は同じ人間ではない。だが、彼が言わんとする意味はよく理解できた。
私が進学校で学年上位の成績を取っていた頃、私を蔑んでいたのは両親だけだった。しかし、精神疾患を患ったのち、私を蔑む人の範囲が急速に拡大した。学生時代も、生きるために身体を売っていたときも、閉鎖病棟の保護室で壁を睨むだけの日々を送っていた当時も、どれも遜色なく私は人間で、その価値に上下なんてないはずだった。それなのに、「障害がある」というだけで人間扱いされない。

愛されたいーーただそれだけを願っていたはずなのに、あらゆるものが指の間からこぼれ落ちていく。それを外側から眺めるだけの自分に、途方もない無力感を覚えた。

チャーリイの手術は、一度は成功したかに見えた。しかし、急成長した知能は、それと同等、もしくはそれ以上の速さで下降していく。絶望し、荒れ果てる日々を過ごしたのち、彼は両親と妹に会いに行く決断をする。家族との再会を果たし、知識や記憶が薄れゆく中、チャーリイは最後に研究室の人たちにこう書き残した。

“ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください”

写真提供◎photoAC

彼が最後に残したのは、自分のための文章ではなかった。チャーリイは人の心を持ち、思いやりにあふれ、他者の幸せを願える人間だった。持っているものが少なくとも、周りからどれほど疎まれようとも、彼は一番大切なものを手放さなかった。彼は、紛れもなく人間だった。

“人間扱いされない”状況に置かれたとしても、人間をやめる必要はない。私は現在も精神疾患を患っており、そのせいで“異物”として扱われることも多い。見せ物にされることもある。だが、私はただの人間だ。踏まれたら痛い。優しくされたら嬉しい。そういう人間だ。

「できること」の総量で人の価値を測っていたら、大切なものは見えてこない。だが、社会は往々にしてそのような仕組みになっている。変えるべきは、当事者か、社会か。問うまでもない問いの答えから大人が目を背けているうちは、理不尽な痛みに呻き続ける人間は減らないだろう。

チャーリイが残した手紙には、「友だちをたくさんつくろうと思います」と記してあった。彼のささやかな願いは、きっと叶えられただろう。できないことが多くても、人と違う面があっても、友だちはできるから。

今の私には、友だちがいる。心から信頼できるその人たちは、私が物書きだから友だちでいてくれるわけではない。私が「できること」ではなく、「私」を見て、「私自身」を好いてくれている。そういう人と出会える未来を諦めずに済んだのは、チャーリイが書き残した手紙に込められた、小さな願いのおかげである。

※引用箇所は全て、ダニエル・キイス著作『アルジャーノンに花束を』本文より引用しております。