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通常の家庭では、親が子どもに道徳観念や“人として“大切なことを教える。だが、中には歪んだ感情をぶつける相手に「我が子」を選ぶ親もいる。そういった場合、子どもは親に必要なあれこれを教わることができない。私の親も、まさにそれだった。
だが、そんな私に生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたものがある。それが、「本」という存在だった。
このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた私の原体験でもあり、作家の方々への感謝状でもある。

前回「父の性虐待、母の暴力…兄も姉も両親に愛された。どうして、私なんだろう…家を逃れた先は閉鎖病棟だった」はこちら

後遺症の影響で仕事が続かず貧困に陥る日々

両親から受けた虐待の後遺症は、私の想像をはるかに超えて長期に亘り続いた。正確にいえば、それは現在進行形で続いている。「双極性障害」と「解離性同一性障害」。それが、今現在私が受けている診断名だ。しかし、正しい病名にたどりついたのは数年前の話で、それまでは病院によって診断や治療法がバラバラだった。何より、私自身が両親から受けていた虐待の全容を医師に話す勇気がなかった。

人に知られてはいけない。言えば良くないことが起こる。その恐怖は、40歳を過ぎた今でさえ完全には抜けていない。私が父から受けた性虐待の実態を公の場で書きはじめたとき、交代人格のひとりである5歳の少女は、狂ったように泣き喚いたという。

「言っちゃいけないんだよ!言ったらダメなんだよ!言ったら痛い(こと)されちゃう!!」

彼女の悲鳴を聞いたのは、私自身ではない。私は交代人格と記憶を共有できないし、彼ら・彼女らとコミュニケーションを取れない。彼女の悲鳴を聞き、必死に宥めたのは現在のパートナーである。「もう大丈夫なんだよ」といくら言って聞かせても、彼女は聞く耳を持たず、「言っちゃダメなんだよ!」と繰り返した。私がこの年になるまで事実を誰にも打ち明けられなかったのは、私自身のみならず、私の中にいる交代人格が抱く恐れもブレーキになっていたのではないかと思う。

事実を伝えられない私。誤診を繰り返す医療者。必要な治療が受けられない日々。その悪循環の中で、私の心身が整うことはなかった。結果、安定的に働くことは叶わず、あっという間に貧困への道を転げ落ちた。

卵も納豆も味噌も買えない。家にあるのが米と麦茶だけだったとき、試しに米に麦茶をかけて食べてみたことがある。お茶漬けのような味わいになるかと期待したのだが、一口食べてすぐに後悔した。食べられないわけではないが、お世辞にも「おいしい」とは言えない代物だった。あの味を20年以上経った今でも覚えているのは、悔しかったからだ。世の中にあふれる数々の理不尽は、被害当事者のせいではない。それなのに、どうして私はこんな生活を強いられねばならないのだろう。そう思うと、悔しくてたまらなかった。涙と鼻水が、お椀の中に滴り落ちる。それでも私は、その中身を食らった。これは、戦時中の話ではない。平成の時代の話だ。そして、令和の現代においても、同じような環境を強いられている人はそこら中にあふれている。

「いない」と感じるのは、見えないだけだ。知られたくない現状を、大抵の人は隠す。悲惨な生い立ちを打ち明けたところで、誰が助けてくれるわけでもない。それどころか、「関わりたくない」と言わんばかりに蜘蛛の子を散らすように去っていく。だから、みな口を閉ざすのだ。困っていることも、窮地に立たされていることも、虐げられていることも言わない。何も言わずに、普通を装ってにこにこと笑っている。