離婚騒動で幼稚園入園を断られ

晩年の母の雰囲気から、「あたたかい人」というイメージを持つ人もいるかもしれませんが、私が小さい頃の母は本当に厳しい人でした。といっても、「あれをしてはダメ」という厳しさではありません。

私にとって母は、ものすごく強い、絶対的なもの。子どもをかわいがるというより、「私はこうやって歩いていくからついてきなさい」という感じで、時々振り向いて確認してくれる、という親子関係でした。

小さい頃の、こんな思い出があります。囲炉裏にヤカンがかけてあり、私が手を近づけたら、いきなり手をパッとまれて、一瞬、ヤカンに手をつけられたんです。ギャッと叫ぶと、「熱いでしょう。これで一生、気をつけるわよね」。本当に過激です。私はあんなこと、自分の子どもにはできません。母がいかに強靭な精神の持ち主か、自分が子どもを育てて初めてわかりました。

子どもの頃、オモチャを買ってもらったこともないし、服はいつも誰かのおさがり。でも中学に入る頃、たまたま母とヨウジヤマモトの店の前を通りかかったら、「あなたも黒いスーツを持っていたほうがいいわね」と言い出しました。

ブランド店に入るなんて初めてで嬉しくて、「これもいい」「あれもいい」と目移りしていたら、全部買ってくれた。かなりの金額です。私は、母がお財布からお札を出すのを見て、「うちは貧乏だったわけじゃないんだ」と初めて知りました。

家での食事は極めて質素で、一汁一菜とお漬物。分厚い木の蓋を載せた鉄釜で玄米を炊く、日本昔話みたいな生活です。でも子どもにしてみれば、あまり嬉しくない(笑)。学校の友人らはみんなカラフルなお弁当を持ってきているので、茶色の地味なお弁当が嫌で、隠して食べていました。

私はインターナショナルスクールに通っていましたが、英才教育のためではありません。幼稚園に入る頃、父が一方的に離婚届を提出したことで母が裁判を起こし、マスコミの人が自宅に押し掛けてきて大騒ぎになり、近所の幼稚園から入園を断られたのです。

日本の幼稚園や学校に行けば、みんなうちの家庭のことを知っていますが、インターではそれがない。私にとってはありがたかったです。私は両親のことは絶対に明かさず、匿名性を守りながら生きていました。

両親が極端な人だったので、私は常に、自分は中庸でありたいと思っていました。人からは「よくグレなかったね」と言われますが、グレている両親を見ていたので(笑)、ああはなりたくないという気持ちが自制心を生んだのでしょう。

思春期には、私も自分の言葉を持つようになり、疑問を投げかけることができるようになると、母とはすごく深く、大切な話がたくさんできました。その時、母の子どもでよかったなと思いました。