「若い頃の優作は喧嘩っ早いところもあったけれど、豊ちゃんとは一度もぶつからなかった」(松田さん)

松田 気が合うだけではなく、根底に尊敬があったのね。あの頃、豊ちゃんは萩原健一さんと組んだ『傷だらけの天使』(74~75年)で一躍人気俳優に。

水谷 生田スタジオでの撮影の前日に泊まらせてもらったことがあったでしょう。僕はどうしようもない方向音痴で、行ったことがある場所でも必ず迷う。だから優作ちゃんが、家からスタジオまでの綿密な地図を描いてくれて。その通りに運転して行ったら、無事に辿り着けた。そういうマメなところもあったんですね。

松田 それは知らなかった。放っておいたら、どこに行っちゃうかわからないとでも思ったんでしょうね。(笑)

 

葬儀の日は言葉を交わすことなく

水谷 マミさんと優作ちゃんのお嬢さんが生まれた時、覚えてます?出産祝いに、赤ちゃん用の靴をプレゼントしたのを。

松田 覚えていますよ。赤い、かわいい靴。私が優作と離婚してからは、豊ちゃんと会う機会はなくなってしまって。再会したのは1989年、膀胱がんで亡くなった優作の葬儀の日でしたね。

水谷 あの日はお互い、とても言葉を交わす気持ちになれなくて。その後、マミさんはノンフィクション作家として活躍するようになり、2007年に刊行した『越境者 松田優作』のための取材を受けた時に再会しましたね。

松田 ほぼ15年ぶりでした。

水谷 優作ちゃんが亡くなって、その時までは彼についての取材はシャットアウトしていたんです。