散在し強制隠居を受けた先代家長
島之内鰻谷(しまのうちうなぎだに)(現大阪市中央区)の吉野五運(よしのごうん)家は、享保12年(1727)に開業したといわれる合薬屋(あわせぐすりや)(調合した薬の小売業)であり、人参三臓円(にんじんさんぞうえん)という家伝の合薬を製造し、販売していた。
これを発売した寿斎(じゅさい)(1722〜88)を初代とすると、とくに五代の庸斎(ようさい)は、脚本家の浜松歌国(はままつうたくに)(1776〜1827)らを後援した人として知られる。
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右五運方〔については〕商売向(しょうばいむき)は手広くいたし、よき家督にて、家内は温和、多人数が暮らし、身上向(しんじょうむき)(家計状態)は至極よろしいとのこと、前から承りに及んでいました。
しかしながら、右〔父親の〕勇助については、先年より素行がよろしくないので、名前も退かせ、当時は隠居の姿にて、〔吉野五運家に〕同居しておりますとのこと。
もっとも、去る亥年((寛政三年)、島之内火災後の再建工事の入用にてよほど出費がありましたとのこと。居宅については立派に工事が完了しましたが、〔居宅の鰻谷は〕甚だ淋しき場所にございます。ほかに抱屋敷は別紙のとおり、いずれも類焼し、いまだ二か所については再建工事が済んでおらず、まさに記したとおりの時価にございます。
すべて売薬店のこと。とくに勇助の人柄がよろしくなく、山懸(やまかか)り(大言壮語)のようにも聞こえましたので、まずは望みがないものにございます。
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この信用調査は、三井京都両替店が三井大坂両替店に依頼したものだ。大坂両替店の手代が調査し、京都両替店に調査結果を返送した。
吉野五運は、遅くとも19世紀初頭には江戸・京都に支店を開業していたというから(松迫寿代「近世中後期における合薬流通――商品流通の一例として」(『待兼山論叢 史学篇』第29号、1995年)〉、吉野五運の支店が京都両替店に借入を希望したところ、京都両替店が五運の大坂本店を調べようとしたことになる。