『婦人公論』が、常時募集している「読者ノンフィクション」企画。90代の読者が自身の体験を書き上げた力作を、1作ずつご紹介します。九十有余年を生きた人だから描ける喜びや悲しみ、稀有な巡りあわせが、ひとつひとつの物語に詰まっています
笑顔の生徒たちと宙を舞う粉ミルク
昭和24年4月1日、私は憧れの小学校教員になった。太平洋戦争が終わり、荒廃した日本が新しい時代へと進みつつあるときである。まだ19歳。学生気分の残る私は、新卒で大阪市西成区にあるK校に赴任した。そのころは、午前と午後の二部に分かれて授業が行われていた。
はじめて私が受け持ったのは、3年生。クラスの生徒は男女合わせて50人以上いた。担任の仕事は多岐にわたり、子どもたちの生活全般に関わる。みんな靴はボロボロ、十分な食事を摂れていないことがわかる体つき。
広島に投下された原爆で親を失った子どももいれば、シラミによる発疹チフスに罹った父親と暮らす子どももいる。戦禍の傷跡は無残で、目を背けたくなるほどだった。
そんななか、子どもたちの楽しみと言えば給食だった。もっとも給食と言っても名ばかりで、アメリカから配給されたララ物資の粉ミルクのみである。
「給食の用意をしましょう」
私が言うと、係の子どもがひとりひとりの机の上に紙を置いていく。そこへ私が粉のままのミルクを金杓子で配るのだ。「いただきます」などと子どもたちが声を出そうものなら、粉ミルクがパアッと宙を舞う。教室中に白い粉が舞い上がるのがお決まりの光景でもあった。
そのころ、私にとって嬉しいことが起きた。新学期から一度も顔を見せることのなかったTちゃんが、登校してきてくれたのだ。
Tちゃんの家は門構えの立派な屋敷だったそうだが、空襲によって廃墟と化してしまった。Tちゃんはいつもおどおどしていたけれど、給食の時間だけは楽しそうで、笑顔を見せてくれるのだった。