(写真提供:Photo AC)

大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は〈刀伊入寇〉と「暴れん坊」藤原隆家について、新刊『女たちの平安後期』をもとに、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

〈刀伊入寇〉と「暴れん坊」藤原隆家

この事件は割合に詳しい記録が残されている。

大宰府からの正式報告が『朝野群載』(主に平安後期の詩文・宣旨・官符・書札等の各種文書を分類し、編纂した書。算博士三善為康が1116年に完成させ、のちに増補している)に載せられ、さらに『小右記』にもつづけざまに情報が載せられているからで、戦いの状況を、その緊迫した雰囲気とともに知ることができる。

『小右記』は藤原実資の日記で、彼は当時大納言であり、政府実務を担っている人物だった。

ここで大納言という役職を簡単に説明しておくと、左右大臣以下の上級貴族が参加する太政官会議(政策を決定する会議)に参加し、天皇にその結果を報告(上奏)したり、天皇の名でおこなわれる命令(太政官符や官宣旨など)を下したりする権限を持っている、いわば准大臣である。

この当時は大納言2人と定数外の権大納言が4人いて、大納言は実資と藤原道綱、権大納言は藤原斉信、公任、源俊賢、そして藤原教通である。

斉信、公任、俊賢は、藤原行成とともに「一条朝の四納言」と讃えられた英才で、道綱は摂政を降りたばかりの藤原道長の異母兄(母は『蜻蛉日記』の著者、右大将道綱母)、教通は道長と正妻の源倫子の間の次男で、新摂政となった頼通の弟、のちの関白である。