賞金の100万円で世界旅行
五木寛之の小説『青年は荒野をめざす』が、若者のバイブルとなった「平凡パンチ」に連載されたのは、世界でベトナム反戦が叫ばれた1967年だった。若きジャズミュージシャンが横浜港からハバロフスクへ行き、旧ソ連と北欧を放浪する物語。ザ・フォーク・クルセダーズが歌う同名の曲が大ヒットし、シベリア鉄道でゆく自分探しの旅はブームになっていく。それは、沢木耕太郎の『深夜特急』が大勢のバックパッカーを生みだすバブル期からおよそ20年前の出来事だ。
『青年は荒野をめざす』から3年後の70年8月、35歳の富岡多惠子と26歳の菅木志雄もソビエトとアメリカ、ふたつの大陸を鉄道で横断する旅へ出た。高度経済成長が完成し、大阪万博が開かれたこの年、菅が第5回ジャパン・アート・フェスティバルで2600点の応募作から大賞に選ばれ、副賞100万円を獲得したのである。1年遅れの新婚旅行となった。
受賞作「限界状況」は、菅の初期の代表作のひとつで、長方形の木の枠の中にコンクリートの円柱を斜めに横たえ、根元に自然石をいくつか置いた作品。新聞の文化欄には〈いよいよ変わっていて〉(「読売新聞」1970年7月23日夕刊)とある。
菅は、受賞は幸運だったと話す。
「アメリカのグッゲンハイム美術館のキュレーターが、審査員にいたんですね。だから大賞をとれたんで、日本人の審査員だったら難しかったと思います。それぐらい美術に関してはアメリカと日本の差があった時代です。僕の作品というのは、僕が『作品です』と言わない限り、だいたいが作品に見えないから。
当時の100万円というのがどれくらいの貨幣価値だったのか、ちょっとわからないけれど、多惠子さんは旅がとても好きでした。思考の源泉になるからでしょうね。だから、100万円を使ってふたりで世界旅行しようということになったんですよ」
現在のようなネット社会ではない時代に、「ふたつの大陸を鉄道で横断」というアイデアも、旅行の計画を立てたのも、旅行代理店との打ち合わせも、すべて富岡が担った。74年に出た多田道太郎との対談集では、ヨーロッパを回ったとき(注・66年)の経験が自信になり、今度もまた同じように自分で地図を開いて旅程を考えたのだと、作家は語っていた。
船でナホトカまで行き、ナホトカからモスクワまでシベリア鉄道で7泊8日、モスクワから船でバルト海を渡り北欧へ、北欧をめぐってロンドンから飛行機でニューヨークへ飛び、シカゴまでバス、シカゴからロスまで汽車で、計40日の旅。
菅の記憶に残る新婚旅行の場面は、やはり、シベリア鉄道だった。
「途中、レーニン像を拝みながら、黒パン食べて、サリャンカってスープ飲んで、ときどき売りにくるヨーグルト飲んで、途中に駅らしい駅もなくてひたすら汽車はモスクワに向かい、ロシアの平原を横断しました。ロシアの農民みたいな気分だったよね。たまたま世界を放浪中のドイツ青年と知り合ったんですが、彼が将棋盤持っていてね、日本で習ったというので、将棋をやったんですよ。これが強くて、何度やってもすってんてんに負ける。10回は負けましたよ。多惠子さんに『あなたダメね』と言われて、『すみません』って言って。そんな旅でした」
富岡は、幾度かエッセイでこの旅に触れていて、2作目の短編小説ではモチーフに使っており、シベリア鉄道でのドイツ青年との出会いも、やがて『水上庭園』としてフィクション化されることになる。しかし、何より小説家・富岡多惠子誕生のジャンピングボードとなったのが、ふたつの大陸を鉄道で横断する旅であった。