「男流文学論」を出したころ(中央公論新社、1993年撮影)

 

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

ウーマンリブからフェミニズムへ


 1980年代は、ウーマンリブに代わってフェミニズムという言葉が流通した時代である。86年に男女雇用機会均等法が施行され、87年にはそれを背景に、林真理子と中野翠が週刊誌のコラムで子どもをテレビ局に同伴するアグネス・チャンへの違和感を表明したところ、働く母親の子連れ出勤をめぐる議論「アグネス論争」が勃発した。フェミニズム本も次々と出版され、88年暮れには、JICC出版局(現・宝島社)から『わかりたいあなたのためのフェミニズム・入門』なるムック本が発売される。
 そうした動きのなかで昭和から平成になったころ、筑摩書房にいた藤本由香里(現・明治大学教授)は、先輩編集者の間宮幹彦から声をかけられた。
「これ、藤本さんがやってくれないか」
 それは間宮が担当する作家、富岡多惠子から男性作家の作品を読み直す読書会をやりたいと打診された企画だった。間宮は、82年の『室生犀星』を編集して以来、富岡が全幅の信頼を寄せる編集者だが、企画意図を踏まえて藤本に託したのだ。文壇に石を投げることになる『男流文学論』のはじまりである。
 〈これによって、いよいよ、この巧妙な文学的性差別表現(注・女流)が、日本における一般的討論の場へ「引きずり出された」のである〉(『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』2018年)
 発刊から35年後に、そう『男流文学論』を位置づけたのは、イルメラ日地谷キルシュネライト。86年9月2日の朝日新聞夕刊に、「正統に扱われぬ現状」という見出しがついた「“女流文学”が文学になる日」を寄稿し、「女流」という表現が内包する問題を鋭く喚起していたドイツ人の日本文学研究者である。
 キルシュネライトは、82年から88年にかけて日本の14人の女性作家へインタビューしており、36年後にそれをまとめて、『〈女流放談〉昭和を生きた女性作家たち』を出版している。佐多稲子、円地文子、河野多惠子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島祐子、金井美恵子、中山千夏、そして出版時にインタビューしたという瀬戸内寂聴が「女性作家として書き続けること」を忌憚なく語って、すこぶる面白い。インタビューには応じたが収録されなかった作家もいて、なかに他界していた森茉莉や有吉佐和子と並んで、富岡多惠子もいた。なぜ存命だった富岡が収録を断ったかは不明だが、キルシュネライトによる巻末のエッセイにはこうあった。
〈作家たちのほとんどが、「女流文学」という表現に対しては不快感をあらわしていた。彼女たちは、言葉自体がすでに偏見を含んでいるこの表現によって、自動的に狭いコルセットに押し込まれてしまうことを嫌っていた〉(同)
 無論、富岡はその筆頭であったろう。インタビューから2年後に刊行された著書に書いている。

〈わたしは「女流」というコトバを「ごく自然に」使っているひとを、男女に限らずあまり信用していない。「女流」の「流」とは「類」の意味であり、「女流」は意味的には「女類」であるが、もちろんそれが「女流」となって通用していることには社会的意味が付帯している〉(『藤の衣に麻の衾』1984年)