伊東の家で(写真提供:菅木志雄氏)
戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

散文とは思考の連続

 1995年は、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が立て続けに起こった年である。日本人の平均寿命が男性76・38歳、女性82・85歳という時代で、59歳になった富岡多惠子はこの年の1月から5月にかけて、岩波書店から評論とエッセイを集めた『富岡多惠子の発言』全5巻を順次刊行していく。
 巻頭に「『文学的』おいたち記」を、巻末に編者である黒川創による解説やインタビューを置いて、装丁は菊地信義。他ではちょっと見ないシリーズだ。
 編集したのは当時、岩波にいた中川和夫。2010年にぷねうま舎を立ち上げて、12年に最後の随筆集『ト書集』、13年には最後の対談集『折口信夫の青春』を刊行して、富岡にとって文字どおり最後の編集者となった。
 富岡と14歳年下の中川の縁は、87年刊行の『西鶴のかたり』に遡る。連続講義「作家の方法」シリーズの1冊で、3回の講座をまとめたものだが、井原西鶴を論じながら語りとは何かからはじまり、歌とのわかれ、なぜ小説へ向かったのか、「散文とは思考の運動」と、作家の文学的道程までもたどることができる。
 エピローグの一文。

〈「話す」や「喋る」や「語る」のなかには、感情をあらわそうとする意志と考えを説明しておこうとする意志が未分化のままにたゆたっている。「書く」となると、感情の方の制御装置がより強く働くのはいうまでもない。「書く」ことで、わたしはこのクセをつけてしまっている。それでいて、いいたいこと、考えていることはウソ(虚構)による方が表現しやすくなっている。これは音声の表現から遠ざかっていくことである。これをおしすすめていくと沈黙になる。わたしはかなりそうなっている〉(『西鶴のかたり』1987年)

 中川は、50人強が集まる教室が毎回満室となったことを覚えていた。
「人前に立たれると、ひとを活性化しなければならないという一種の義務感みたいなものをお持ちになっていた気がします。ひとに教えるのは限りなく僣越なことだと思っていらっしゃるから、教師と聴講生という関係ではなくそこに入っていこうとされた。関西人ですから言語化できないものを見えやすくできないかと模索され、今回はパフォーマンスつきなんです、と所作をやってみせたり。毎回、ずいぶん笑いをとっておられました」
『西鶴のかたり』刊行の2年後に作家が伊東へ引っ越してからも、中川は片道2時間以上かけて大室高原まで通い、富岡の本をつくった。
「富岡さんは、社会や文学との関わり方が他の作家とは違っていたのです。男性作家には、俺は作家だ、大切なことをやっているんだというスタンスをお持ちになる方もおられるのですが、富岡さんは人間であることが第一で、業績や社会的な位置というものは副次的なものにすぎないという考え。それは生涯崩れませんでした」
 料理をしたり、掃除をしたり、花を愛でたり、日常生活のなかに書くことがあると富岡は常々語り、書いてきた。39歳のときに受けた大島渚のインタビューではこう語った。

〈市場へいって「このナスビの色ええなあ」とか、そういうものを人生からなくしていったら、いくらええ小説書いて賞もろたってわびしい。やっぱりつまんないことをするのが生きることなんやからという気がするわ〉(「のびのび」1974年12月号)