
曽野綾子さん(写真提供:読売新聞社)
(その・あやこ)1931年東京生まれ。54年、「遠来の客たち」でデビュー。主な著作に『神の汚れた手』『老いの才覚』など。79年、ローマ教皇庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章。93年、日本芸術院賞・恩賜賞受賞。95年12月から2005年6月まで日本財団会長を務めた
(その・あやこ)1931年東京生まれ。54年、「遠来の客たち」でデビュー。主な著作に『神の汚れた手』『老いの才覚』など。79年、ローマ教皇庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章。93年、日本芸術院賞・恩賜賞受賞。95年12月から2005年6月まで日本財団会長を務めた
『誰のために愛するか』など数々のベストセラーを生み出したほか、国際的な福祉活動でも多くの功績を残した作家の曽野綾子さんが、今年2月に逝去されました。長男・三浦太郎さんの妻、暁子さんが、曽野さんとの最期の日々を語ります。(構成:篠藤ゆり 撮影:洞澤佐智子)
「結婚しなさいよ」と背中を押され
作家としての曽野綾子の名前は知っていましたが、実際に初めて会ったのは、私が高校1年、15歳の時。同じ学校の3年に太郎が在籍していて、生徒会の用事で、何人かで三浦家を訪れることになったのです。
居間でわーわーやっていたら、いきなり「いらっしゃい」と言いながら居間にやってきました。外出から帰ってきたところらしく、スーツにショートカットで颯爽と入ってきて、お手伝いさんに「これを出してあげて」とお茶の采配を振るったかと思うと、「じゃあ、また」とパッといなくなり――私が知っている世の母親像とはかけ離れていました。
当時すでに『無名碑』などの社会派小説や、鋭い評論で知られていましたが、家の中でもその職業人としての姿は崩れないのだと圧倒されたものです。
私が高校3年の時に交際を始めましたが、太郎は文化人類学の研究者を目指して名古屋の大学で勉強していたので、あまり会う機会がありません。一方私は、父が札幌に転勤になったため東京で一人暮らし。太郎が名古屋にいる時も、たまに三浦家にお邪魔してご飯を食べさせてもらうようになりました。
ある時、太郎の同級生から、「彼は今、研究で大事な時だから、女の子とつき合っている場合じゃない」と意見されました。太郎のいない三浦家にご飯に招かれた際、三浦朱門と曽野綾子に「私は太郎さんの勉強の邪魔になっていると思います」と言ったところ、いきなり曽野綾子が「じゃあ、結婚しなさいよ」。思わず「えっ!?」と聞き返してしまいました。