2月28日、状態がよくないと病院から電話が。駆けつけると、義母は荒い息遣いをし、意識もありません。

見守っているうちに猛烈にお腹が空いてきたので、お昼の12時頃、おにぎりでも買ってこようと思って義母の右手をさすりながら「ちょっと行ってくるね」と言うと、義母が私の手首をギュッと握ってきたのです。それも、ものすごい力で。

療養生活が始まってからは背中や手をさするなどスキンシップをとるようになりましたが、それまで普段の生活の中で義母と手を握り合うことなどありませんでした。私はそのまま手をつないで座っていました。

そして2時半頃、息が途切れたかと思うと、「ふっ、ふっ」と2度吐き出しました。それから右目から涙を流したのです。ペンダントトップみたいな、綺麗な形の涙でした。そして、心停止。その直後、私は取り乱したようですが、あまり記憶がありません。

うまく言えないのですが、光が差してくるような明るく静かな帰天でした。義母は最期まで、三浦知壽子ではなく、「作家・曽野綾子」として亡くなったのだ。そう思いました。

ひとつ後悔しているのは、大学病院に入院していた時、酸素を入れる管を看護師が鼻から入れようとすると嫌がるので、私が義母の頭を押さえたこと。「あなたには、そういうことをされたくない」とハッキリ言われました。「じゃあ、どうしてもらいたい?」と問いましたが、答えは返ってきませんでした。

もしかしたら、頭を押さえるのではなく、撫でてほしかったのでしょうか。どんなに強い人でも、そういう時があると思うのです。ですから葬儀の後、火葬場で骨を拾う際、まだ温かい頭蓋骨をそっと撫でました。「お義母さま、長い間、本当に本当におつかれさまでした」と、心の中で呟きながら――。

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