七
穴は底なしにも見えた。
一歩、踏み出せば、足裏は何にも触れず、人はただ真っ逆さまに落ちていくしかない。
一瞬、怯み、おゑんは足を止めた。
一瞬は一瞬でしかなく、すぐに怯えは去り、現は現のまま見えてくる。おゑんの目の前には穴ではなく、六畳ほどの部屋があった。
暗くはない。むしろ、明るい。南向きに開いた窓から光がたっぷりと差し込んでいる。窓の横には一輪挿しの花瓶が掛けてあった。花はない。
部屋の真ん中あたりに夜具が敷かれ、傍らに痩せた老女が座っていた。女はおゑんと宗兵衛にちらりと視線を走らせた。それだけだ。驚くでなし、挨拶するでなし、立ち上がるでなし、身じろぎもせず座っている。
「おとっつぁん、どんな具合だ。ちょっとは飯が食えたかい」
宗兵衛は夜具の近くに膝をつくと身を屈め、明るい調子で訊いた。老女など眼中にないような振る舞いだ。
「重湯ぐらいは口にしないといけないよ。身体に力を蓄えられないからね。しっかり食べられたら、病になんか負けないでいられるからさ」
わざと陽気にしゃべっているのだろうが、作り物でしかない明るさは軽々しいだけにしか聞こえない。
「今日な、お客さんを連れてきたよ。誰だと思う? 名前を聞いたら驚くよ。きっと、驚く。あのな、おゑん先生なんだ。お・ゑ・ん先生。おとっつぁんが話していた、あのおゑん先生だよ」
ほとんど膨らみのなかった掛布団が、ひくりと動いた。
宗兵衛がおゑんを見上げ、頷く。
おゑんはゆっくりと足を運ぶ。宗兵衛は身体をずらして、おゑんのために場所を空けた。
「……伊野屋さん、お久しゅうござんす。ゑんでございます」
気息を整え、頭を下げる。それから、改めて夜具から覗いた顔を見やった。
先代、伊野屋宗兵衛は真っ直ぐにおゑんを見据えていた。
「……伊野屋さん」
鼓動が速まる。その音が耳の底で大きく響いた。
どくっ、どくっ、どくっ、どくっ。
伊野屋の先代は、骨の上に薄い皮を張り付けたほどに痩せこけていた。その皮も薄く灰色を帯び、紙のように乾いていた。触れればカサカサと音を立てて、剥がれ落ちてしまうのではと思える。明らかに死にゆく者の顔だ。おゑんには馴染みの顔様でもあった。
「おゑん……さんか」
白く乾いた唇から、おゑんの名が零れる。そして、眸の底に火が点った。少なくとも、おゑんには、それを感じられた。眸の底が明るみ、生き生きとした光が宿る。
不意に老女が動いた。
先代の身体の下に手を入れ、起こしていく。
「は? お、おい、お定(さだ)。なにをするんだ。そんなことしたら、おとっつぁんの寿命が縮んでしまうじゃないか。やめなさい、お定」
お定と呼ばれた老女は顔を上げ、はっきりと首を横に振った。
「大旦那さまが望んでおられます」
きっぱりとした口調だった。そして、思いの外、深く張りのある声音だった。
宗兵衛の眉が持ち上がった。口が“へ”の字に歪む。
お定と目が合う。皺に囲まれた細い目からは、これも思いの外、強い意志が伝わってきた。おゑんは躊躇わなかった。手を差し出し、先代を支える。
人の身体は人の心よりよほど、支え易い。コツさえ呑み込めば、できる限り相手に負担をかけないよう抱き起こすことも、苦痛を感じさせないよう動かすことも、そう難しくはない。むろん、患者の容体によるけれど、目に見えず、指で触れられない心というものを取り扱うよりはずっと多くの手立てがある。
「……水を」
「はい。ただいま」
おゑんが先代を柔らかく、しっかりと支えているのを確かめ、お定が腕を引いた。枕もとの急須を手に取る。おゑんは先代の顎をほんの僅か、上向けた。急須の注ぎ口から一滴、二滴と水が滴り、病人の口中を潤していく。ただ、それ以上は無理だ。今の先代にまとまった量の水を飲み下す力はない。咽(むせ)て咳き込みでもすれば、命取りになりかねない。
おゑんが止めようとしたとき、お定がすっと急須を引いた。濡れた手拭いでそっと、先代の唇を押さえる。
手慣れている。病人、それも死を間近にした者の看病に慣れているのだ。
先代の、濡れて赤みを取り戻した唇が開く。
「おゑん……さん」
「はい」
「……ほんとに、久しい……まさか、生きてまた逢えるとは……」
「はい。同じ江戸にいながら、あまりに長いご無沙汰でございましたねえ。お許しくださいよ、伊野屋さん」
お定が先代の背中を支え、おゑんに向かって軽く頷いた。その仕草が、
代わります。こちらは、お任せください。
と、告げている。おゑんは頷き返し、先代の傍らに座り直した。先代が緩慢に首を回し、おゑんを正面から見詰めてくる。
「……無沙汰でいい……二度と顔を合わせることはない……はずだった……」
「ええ、その通りです。そのつもりでした。あたしが伊野屋さんの前に現れることは、決してない。そのはずでした。でも……それが、覆ってしまったんです」
覆る。ひっくり返る。思ってもいなかった方角に足を向けねばならなくなる。決意が崩れ、真実と信じ込んでいたものが張りぼての嘘だと知る。
伊野屋さん、あたしはまた一つ、人の世の罠に捕らえられちまったようですよ。無様なことと嗤ってくれて、構いませんよ。けど、あたしは今、安堵しています。
間に合いました。
ぎりぎりかもしれない。でも、何とか間に合った。
生きている伊野屋さんに、こうして逢えましたからね。天にはまだ、見捨てられていなかったと思いたいのです。
「……知っていましたよ」
「え?」
「あなたが医者として、い、生きていると……知っていた。噂が……耳に入ってきて……いや、あなたの噂を……拾っていた。おゑんさん……」
先代の腕が上がり、おゑんに向かって伸びてくる。
細さも色も枯枝そのもののような、腕だ。
おゑんの記憶にある伊野屋の腕はしっかりと肉が付き、硬く、張りがあった。今、目の前にあるものとは、似ても似つかない。
これが、過ぎた年月というものか。
では、先代伊野屋の目には、この自分はどんな風に映っているだろう。
ふと、考えてしまう。
枯枝に似た手がゆらゆらと左右に揺れた。何かを探し求めているかのようだ。
おゑんは躊躇わず、その手の下に頭を持っていった。
「ふふっ」
先代が笑う。小さな笑い声を漏らす。
お定が目を見開いた。その表情で先代の笑顔を見やる。
「大旦那さま、お笑いになりましたか」
先代は答えぬまま、おゑんの頭に手を置く。
「いい子だ。いい……子だ。よく……がんばったな……」
おゑんさん、あんたはいい子だ。強くて、しなやかで、誰にも負けない。
支えてもらった。何があっても生きろと背中を押してもらった。こんな風に頭を撫で、励ましてもらった。遠い過去ではあるけれど、少しも色褪せてはいない。そして、この先、遠い過去がおゑんの“今” に生々しく絡んでくるかもしれない。
それを確かめるために、ここに来た。
「伊野屋さん」
小さな灯の点る眸に、語り掛ける。
「お伺いしたいことがあります」
枯れた腕がすっと離れた。ぱさりと音を立てて、夜具の上に落ちる。思わず、息を呑み込んでいた。力尽き、腕が落ちる。そのまま二度と動かなくなる。
そんな場面をどれほど目の当たりにしてきたか。
「大旦那さま」
「おとっつぁん」
お定と宗兵衛が同時に叫ぶ。おゑんは寸口(すんこう)に指を置いた。弱々しくはあるけれど、脈は測れる。閉じた口の間から、微かに息も漏れていた。
(この章、続く)












