「人の世は何が起こるかわかりませぬし、何が起こっても不思議ではございませぬ」
「馬鹿をお言いでないよ。おまえは少し気にし過ぎなんだよ。伊野屋は昔から光陵との縁があった。医者と生薬屋だから、あってもおかしかないさ。けど三朝屋は味噌屋だよ。味噌屋。医者とはそうそう縁があるわけじゃ……」
「おゑんさま、甲三郎さんにお頼みなされ」
おゑんの饒舌を断ち切るつもりか、末音が珍しく強い口調で言った。
「おゑんさまとて、不安は感じておられるのでしょう。昔から、気持ちが落ち着かないと、おしゃべりになる向きがございましたものなあ」
口を押さえる。さすがに、末音は見透(みすか)していた。誤魔化しようがない。
「末音」
「はい」
「気になるんだよ、三朝屋さんのことが」
「はい」
「今、どんな様子なのか。本当に病に臥しているのか。詳しく知りたいんだ」
「あの若衆なら、上手くやってくれるのではありませぬか。そこらあたりの岡っ引じゃ太刀打ちできないほど、探索の腕はあると思えますがの」
「甲三郎さんは吉原の首代だ。あたしが頼み事をするわけにはいかないよ。甲三郎さんだって、惣名主の許しもないのに、吉原の外の人間を助けたりはできない。そんなことしたら、吉原の内では生きられなくなっちまう」
生きられないのではない。死なねばならないのだ。惣名主の命に従わぬのなら、僅かでも吉原の則からはみ出したのなら、死ぬしかない。己で己を始末するしかない。
それが吉原の首代であるということだ。
「それでは、惣名主からお許しを貰えばよろしかろうの」
「そんなこと、できるわけがないだろう」
「おゑんさまなら、できましょう。わたしの見るところ、おゑんさまは吉原に対し、かなりの貸付がございますよ。越冬虫の件も含めてですがの」
末音がすっと膝を前に進めた。
「おゑんさま、危ない橋を渡らずに済むならそれに越したことはございませんよ。光陵の影がちらついている今、用心に用心を重ねるのがよろしかろう。ええ、伊野屋はもちろん三朝屋にも近づかぬが得策でございます」
「前にも言ったかもしれないけどね」
おゑんは小さく吐息を吐いた。
「惣名主や甲三郎さんまで引きずり出すとしたら、こっちにもそれなりの覚悟がいるんだ。全てを話さなきゃいけない。米沢町で暮らしていた頃の話をね」
「お覚悟はもうできておいででしょう」
「さらりと言うんじゃないよ。あたしだって人の子だ。そうそう腹を括れるもんか」
「それでも」
末音が頭を左右に振った。急に身体が萎んだように見えた。むろん、目の迷いだ。老女とはいえ、人の身体はそう容易く萎んだりしない。
「お覚悟をなさいまし、おゑんさま」
末音の声は少しも萎んでいなかった。底に瑞々しささえ潜ませているようだった。
三日後、おゑんが吉原の大門を潜ったのは昼七つの少し前、昼見世が引けようかという刻だった。客の姿は少なく、女たちのほとんどが見切りをつけて、引っ込んでいた。夜見世に備えて一息ついているのかもしれない。やや傾いたとはいえ冬場とは明らかに違う、力のある日差しが江戸随一の色里を照らし出している。
「先生」
路地の陰から、するりと甲三郎が現れる。
「こちらへ」
目配せすると、甲三郎はおゑんに背を向け、再び路地に入っていった。その後についていく。路地は思いの外、長く、薄暗かった。その中程あたりで、甲三郎は腰高障子に手をかけた。音もなく戸が滑ると、狭い土間が目の前にあった。
藺草(いぐさ)の香りがする。
土間を上がって直(す)ぐの一間、その畳が新しい。青い香りを漂わせ、薄闇の中に白く浮き出ていた。
「お上がりくだせえ」
甲三郎に促されて、おゑんは手拭いで足裏を拭くと真新しい畳を踏み締める。外はうららかな春日であるのに、ここは、ひやりと冷たい。
「こちらです」
甲三郎が無地の襖を開く。川口屋平左衛門が窓を背負って座っていた。
「惣名主、このたびは、かような機会を作ってくださり、まことにありがとう存じます」
手をつき、深々と低頭する。身体中に藺草の香りが染み込んでくる。
「先生、そんな堅苦しい挨拶など不要ですよ。先生にはいろいろご恩がございます。それに少しでもお返しできるなら、御の字だと考えておりますのでね」
川口屋平左衛門は笑い、手招きする仕草でおゑんを呼んだ。
「さらに、先生からの願い事、それが何なのか興味津々でしてな。胸が高鳴って苦しいほどですよ。さあ、先生、どんな話を聞かせてくださるので」
「米沢町の話ですよ、惣名主」
「うん? 米沢町……あの米沢町ですか」
「はい。ただ、今の話ではござんせん。来し方、過去の話です」
「過去の話とは、先生の生い立ち絡みとかですか?」
平左衛門が前のめりになる。“興味津々”の一言は、あながち、その場凌ぎの戯言でもちょっとした挨拶の代わりでもないようだ。
「米沢町といえば、先生」
甲三郎も心持ち、膝を前に進めた。
「昨夜、米沢町で人が殺されたようなんで」
「え、殺し? 」
「へえ、殺しでやすよ。まだ詳しいことは掴めていねえんですが、あのあたりを縄張りにしているお菰が今朝早く、柳の木の根元に転がっている女の死体を見つけたんだそうで」
「女……まさか」
おゑんは唾を呑み下した。まさか、そんなこと。
瞼の裏に女の横顔が過って、消える。「まさかそんな」、唇を強く噛み締めたら、血の味がした。












