
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
済州島は朝鮮半島の南に浮かんでいる。
中央に漢拏山(ハルラサン)という火山がそびえ、その山裾はなだらかに下り、きれいな楕円の海岸線を作って海に没する。つまり島はまるまる一つの火山で、どこにいても斜面を登れば漢拏山に、降れば海に出る。
気温は高く、雨が多く、風は強い。太古からの噴火が作った滝や洞窟がいたるところにあり、暗色の玄武岩がよく採れる。家や田畑、家畜小屋はみな、風よけの石垣を巡らせている。春は菜の花が平地を彩り、初夏ともなれば、つつじが漢拏山の中腹を彩る。黒い玄武岩と白い砂を洗う海はだいたい年中、翡翠(ひすい)色に輝いている。
空も海も煤けた薄暗い工業都市、狭い家がひしめく下町しか、泳葉は知らなかった。済州島の景色は、いつどこで、どれだけ見ても飽きなかった。
ただ、泳葉が訪れた済州島は要塞に代わろうとしていた。日本は本土決戦の準備を進めており、海の中間に浮かぶ済州島は、南から侵攻する連合軍を食い止める防波堤とみなされていた。海陸合わせて八万人近い日本軍が駐屯し、兵舎やトーチカ、飛行場、飛行機を守る分厚いコンクリートの掩体壕、兵士が立てこもる地下壕、レーダー基地、砲台がいたるところに設けられ、さらに港湾の拡張工事も行われていた。
大阪から引き揚げてきた泳葉の一家は、父の親族に迎えられてその離れに間借りすることとなった。ただし、落ち着いて暮らせるような暇はなかった。
父はほかの島民と同じく労役に駆り出され、土や玄武岩、木材、コンクリートの砂袋など重たいものばかりをひたすら運んだ。母は近所の女性たちと海に潜った。軍需物資であるカジメを獲って組合に納め、合間には自家消費や交換のため、ウニやアワビ、サザエ、ワカメを獲っていた。
島の男女が働く傍らで、日本の兵隊も忙しそうだった。彼らは粗製のモーターボートで敵艦に体当たりするとか、爆弾を抱えて戦車の下にもぐりこむとか、無茶な戦い方の訓練に明け暮れていた。
泳葉自身は島の小学校に転校となったが、やはり労役に駆り出された。ごくまれにある授業では、日本語ばかりが教えられた。すらすらと話し、読み上げる泳葉は先生から「皇国少年の模範である」とほめそやされた。抜けきらん大阪の訛りはええのかな、と内心で思った。
ただし泳葉は朝鮮語がからきしで、すぐには友達ができなかった。二度ほど吹っ掛けられた喧嘩に勝利し、また泳葉のほうから話しかけ、互いに知る言葉を教え合ううちに、だんだんと打ち解けた。戦闘機乗りになるという目標を話すと、からかい交じりに励まされた。
漢拏山の中腹を赤紫色に染め上げていたつつじが萎(しお)れ、夏も盛りに入った八月一五日、島を覆っていた重苦しい喧騒は、天まで届くほどの歓喜に代わった。
この日、日本は連合国への降伏を公表した。労働に動員されていた島民は声や幟(のぼり)を上げ、太極と八卦を配した手作りの旗を振り、そこらじゅうを練り歩いた。日本人はみな兵舎や役所、自宅に閉じこもった。
泳葉を海に連れ出したのは、同級生の哲柱(チョルジュ)だった。浜辺を低く這う玄武岩の先っぽ、波が洗うあたりに二人して立った。いつもより風は穏やかで、海は静かに光り、潮の香りは柔らかかった。
「日本は敗けた。戦闘機乗りになるという君の夢も、なくなってしまったな」
哲柱は、端正な日本語を使った。物静な文学少年で、平素は自己を主張することがない。ただし、詠んだ短歌が入選したという経験だけは常から誇りにしていた。
「しゃあない。まあ、いずれは何か、別のやりたいことができるやろ」
泳葉はそう返した。しゃあないんかな、という自問には耳をふさいだ。
「僕は悔しいのだ」
一四という齢のわりに大人びた言い回しを使いながら、哲柱は泣いていた。
「朝鮮は日本から解放された。僕たちはいずれ、再び祖国を持つ。これほどうれしいことはない。けれど、この喜びを表現しようにも、散るらむとか哀しからずやとか、とどめおかましとか、そんな日本語の言葉ばかりが出てくる。朝鮮の、済州島の言葉で育ったはずなのに、いつのまにか感覚は日本のものになってしまった。朝鮮の詩だって、日本語訳の本でしか知らない。それがとても悔しいのだ」
「それこそ、しゃあないやんか」
泳葉はそう応じた。
「俺は日本に住んどったから勝手に日本語覚えられたけど、済州島やと学校で朝鮮語使うたら竹鞭でしばかれるやろ」
「仕方なくはない」
哲柱は首を振った。
「僕は今日から、我が身に沁みついた日本をひとつひとつ捨てていく。すっかり捨てきってしまうまで、ぼくの祖国は返ってこない」
「難しい話は分からん」
泳葉は顔をしかめた。
「けど、何で哲柱はそれを俺に言うのや」
「日本で育った泳葉なら、知らず日本人になろうとしていた僕のつらさを分かってくれるかもしれない。そう思ったのだ」
理屈を装った嘘だな、と泳葉は直感した。たぶん哲柱は、せっかく覚えた日本語が不要になる前に、小難しい言い回しをこねくりまわしたかった。島のそこら中にある洞窟の虚ろ、井戸の底を満たす水面、竹鞭におびえながら「オハヨウゴザイマス」とつぶやく他の級友よりは、大阪訛りながら日本語を知る泳葉のほうが聞き役にふさわしいと思ったのだろう。
「お前が悩んでるのは分かった。とりあえず、日本語は今すぐ忘れたらええ。で、思い出すつもりで俺に朝鮮語を教えてくれ。済州島に帰ってまだ半年も経ってへんから、まだ覚えきらんねん」
哲柱は強くうなずき、街へ行こう、とさっそく朝鮮の言葉で誘ってきた。大人たちの行列に加わって解放を祝いたいらしい。
「俺はもう少しここにおるわ。海が好きやねん」
日本語の適当な出まかせを言って哲柱と別れ、そのまま寄せては返す波を眺める。
梁泳葉は海の上で育った。そのせいか、陸地で起こるあれこれが、ずいぶん面倒に思えてしまう。だから空に昇りたかったのだろうか。
「戦闘機乗り、なられへんかったな」
これが試験に落ちたのであれば、自分のせいだと諦めもつく。進路が勝手に消えてしまったことが、腹立たしかった。
「エンジンの音轟々と、隼(はやぶさ)は征く雲の果て――」
気晴らしのつもりでうたったのは、日本でさんざん聞いた『加藤隼戦闘隊』の歌だった。
日本の降伏後、済州島は熱気に包まれた。
独立する祖国のありかたや民族意識の復興を論じる演説会や演芸会が、連日あちこちで開催された。国語学習所が複数開設され、受講者の習熟度に合わせた朝鮮語の教育も始まった。
ところが、朝鮮半島は北緯三八度を境にして北をソ連、南をアメリカが統治することとなり、南北間はさっそく行き来が制限された。朝鮮全土の民衆がいだいていた独立の希望は、分断の不安に取って代わった。
次いで、日本から六万人もの島出身者が済州島に帰還してきた。帰還それ自体は喜ばしかったが、人口がいっきに三割近くも増えたため、もとから農地がとぼしかった島はたちまち食料危機に陥った。
島が混迷を深める中、泳葉は学校を卒業した。それまで朝鮮語の個人教師役を務めてくれていた級友の哲柱は、つましい卒業式を終えたあと、泳葉を裏庭に連れ出した。
「植民地支配から解放されて半年余りが経つ。だが、ぼくたちの祖国は独立すら果たせず南北に、そして資本家と労働者に分断されたままだ。おかしいと思わないか」
「分からない」
泳葉の返事が切り口上になったのは、まだ朝鮮語に不慣れだからだ。ただし、身構えてもいる。泳葉がいたころの日本では、共産主義が厳しく取り締まられていた。資本家とか労働者とかいう言葉の意味を正確に理解できているかはおぼつかないが、ずいぶん危うい響きはある。
哲柱は目の端を失望の形にゆがめ、さらに言った。
「僕と一緒に、人民委員会の仕事を手伝わないか」
人民委員会は、朝鮮各地で活動している住民自治の団体だ。開放の直後、分断など誰も想像できなかったころに設立された「朝鮮建国準備委員会」、略して建準の各地方支部を母体としている。建準がアメリカ軍政に否認されて立ち消えた後、各支部は左派の人たちが深くかかわって人民委員会に改組された。
「いいかい」
哲柱はさらにまくしたてる。
「僕たちの祖国は、誰もが幸せになる形で一つの国として独立の日を迎えるべきだ。人民委員会こそが、統一独立の母体となる。僕はそう思っている」
済州島の人民委員会は思想の傾きがゆるやかで、間口が広いとは泳葉も聞いていた。ただ、哲柱のような情熱的な人間を引きつけてはいるらしい。
「給料、出るのか。俺、家族を養いたい」
泳葉はそっけない問いを発した。父は手に職がつかないまま出稼ぎに出て、そこで指を奪われ、帰った済州島でもまだ仕事がない。母とて、潜嫂の仕事は長く続けられないだろう。学校を出た以上、泳葉は稼がねばならなかった。寝覚めが悪くならない仕事なら何でもよかったが、家族より大きな理想に身を捧げられる境遇でもなかった。
「僕らにできる程度の仕事では、給料は出ない」
哲柱はついに失望を声に表した。
「けど、僕はきみのような貧しい人のために頑張る。いつかまた会おう」
若々しい気迫にみなぎる決意を言い残し、哲柱は去っていった。理屈っぽいが、悪い奴ではなかった。だから労働者大衆などという他人のために働けるのだろう。級友の背を眺めながら、泳葉はそんなことを思った。
どういう運のめぐりあわせか、泳葉の仕事はすぐに、また幸いな形で見つかった。父と二人して、海辺から徒歩で一時間ほど山側へ行ったところにある村の、地主宅の住み込み使用人となった。雇い主は善良な人で、潜嫂をやめるつもりがなかった母も同居が許された。
泳葉が新しい暮らしを始めた年、朝鮮本土で蔓延(まんえん)したコレラが伝播(でんぱ)して済州島でも数百人の死者が出た。加えてこの年は凶作となり、島の食糧不足に拍車がかかった。済州島のみならず朝鮮本土でも、アメリカ軍政庁の統治は混乱を招く一方だった。
かたや世界では、資本主義陣営と共産主義陣営の「冷戦」が始まっていた。両陣営が分断する朝鮮半島に、冷戦の影はより色濃く差し込んできた。
アメリカ軍政庁は半島で深まる混乱する原因と責任を、共産主義者に押し付けた。米軍の憲兵と各部隊、現地の警察や右翼団体まで動員されて、民衆のデモは強権的に鎮圧された。各地の人民委員会は解散に追い込まれ、「赤色分子(パルゲンイ)」が執拗に捜索された。
済州島でも、日本統治時代の独立運動を記念する大会に島民の一割を超える三万人が集結し、現状の改善を訴えるデモに発展した。銃撃にさらされたデモ参加者のうち六人が死亡すると、憤った島民はストライキを敢行する。軍政側は数百人の逮捕者を出してストをつぶした。
状況をさらに混乱させたのが、独立問題だった。朝鮮半島をめぐるアメリカとソ連の交渉が決裂し、南側だけで国会議員の総選挙を行うと決まった。長い歴史を持つ一国家の分断が、規定の路線になりつつあった。
年が明けた一九四八年の一月、済州島では左派への一斉手入れが行われ、また三人の若者が拷問死した。
四月三日の夜明け。赤紫色にふくらむヂンダレ(朝鮮つつじ)のつぼみが朝日に照らされた。大気は冷たく冴えていた。
漢拏山のそこここにある小火山(オルム)から多数の狼煙が上がった。山麓のいたるところでも青白く光る信号弾が澄んだ空へと昇っていった。
この日、山中に潜伏していた左派の武装勢力が決起した。山部隊(サンブデ)と呼ばれる彼らは、警察署や右翼団体の拠点、その幹部宅、総選挙の準備をしていた投票所や選挙事務所を襲った。山部隊は多数の人を殺害し、また警察から奪った武器で自らを強化した。
アメリカ軍政庁は済州島を「アカの島」と呼び、武力鎮圧に乗り出した。警察だけでなく、軽武装の軍隊である警備隊まで出動して、山部隊とその協力者、協力していると決めつけた島民を追い回した。捜査も手続きもない逮捕、逮捕の手間すら惜しんだ即時処刑が横行した。なんら法的権限がないはずの右翼団体も、左派狩りに協力した。海にはアメリカの駆逐艦が遊弋し、済州島を封鎖した。
それでも、蜂起は収まらない。軍政側は、海岸から五キロ以上離れた山間部を「敵性地帯」として、住民の退去を命じた。次に警備隊が山間部に入り、見つけた村落を山部隊の拠点であるか将来の拠点になるとして、焼いた。警備隊は海側から来るため、住民は山のほうへ、つまりは敵性地帯の奥へ避難するしかなかった。追ってきた警備隊は避難者を捕らえ、あるいは殺した。
追い詰められた山部隊のほうでも、軍政側に協力したと見なした村を襲撃するようになった。誰が敵か味方か分からず、どこにいれば命の保証があるかも定かでなく、どんな立場や職業であっても殺害の危険が及ぶ。済州島はそんな島となった。 〈つづく〉
