あたしは、黙って“引導を渡された”の意味を思案していましたね。引導とは導師の法語のこと、引導を渡すとは、全てを諦めろと説くことでもあります。龍堂の余命がそう長くはないと医者として判じた上で、光陵がその事実を龍堂に告げたのなら、わかります。引導を渡すの意味がね。
でも、渡されたとは? 光陵が引導を渡されたとは、いかなる意味になるのか、そのときのあたしには解せませんでした。そのあたしを座ったまま見上げ、光陵は薄く笑いました。嘲笑うような笑みでしたね。
「そうさ、おれが引導を渡されたんだよ。改めてな。『自分が亡くなった後、おまえは今まで通り療養所で中心となって働け。しかし、決して表舞台には出るな』とな。つまり、一生涯飼い殺しになっていろ。義兄たちのために生きろってことさ」
「先生が、最期にそんなことを……」
「そうさ。これまで支えてきたおれへの労いなど一言もなく奴僕になれと念押ししやがった。まっ、龍堂なら、いかにも言いそうな遺言だろう」
いかにも言いそうだと、あたしは頷きそうになりました。むろん、半寸も首を動かしませんでしたが。言いそうなことを言ったから、殺したのかと問いもしませんでした。それだけの度胸がなかったのです。
目付きも、地を這うような低い声も、どろりと粘く、そのくせ尖った気配も、光陵の何もかもが尋常ではなくて……正気を失っているとかではなくて……そう、あたしは、欠けを感じたんですよ。
この男は人としての何かが欠けている、と。
得体の知れない化け物のようだ、と。
鼓動が速まるのも、口の中が干上がっていくのもわかりました。あのとき、あたしは、龍堂は病死ではなく、殺されたのだと察しました。自分で答えを見つけたわけです。
「端からそのつもりだったのさ。龍堂のやつ、自分の息子が医者として全く使えないと早くから見破っていたのだ。それで、おれたちを育てたんだよ。出来損ないの息子たちにとっての捨て駒にするためにな。おゑん、おまえは、上手く逃げおおせたな。見事なもんさ。おれは、先刻、義母にも言われたんだ。これからは恩を返すために生きろ、とな。はっ、恩だとさ。奉公人とさほど変わらぬ扱いをしておいて、こき使うだけこき使っておいて、挙句の果てに一生を捧げろとよ。馬鹿馬鹿しくて話にもならんだろう」
我知らずなのかわざとなのか、“先生”が“龍堂”と呼び捨てになりました。その呼び方に滲む憎悪に、あたしはさらに身を硬くしましたよ。心の臓が潰れるような、口の中が罅割(ひびわ)れるような覚えさえありました。ええ、だから、わたしもまだまだ若かったんです。甲三郎さん、そんな腑に落ちないって顔、しないでくださいな。でもね、その後に光陵が続けた台詞を耳にしたら、今のあたしでも悪寒ぐらいは覚えたかもしれません。ええ、光陵は告げたのですよ、あたしにではなく自分に、ね。
「けどな、おれはそんなに甘くはない。おれを将棋の駒のように扱おうとしたやつらは、それなりの報いをうけることになるさ。そして、おれは、おれに相応しい生き方を手に入れるんだ。自分でな」
言葉だけ取り上げれば、若者らしい熱(ほとぼ)りにも聞こえるでしょう。でも、そうじゃない。そんなありふれた、可愛らしいものじゃありません。もっと、冷えて、根深く暗いものです。それを何と呼べばいいのか、あたしは、今に至るまで掴めていません。
光陵が帰る間際、あたしは問いました。
なぜ、日野家を出て行かないのかと。
「日野の屋敷を出ればいいじゃないか。そうしたら、あんたも好きに生きられるだろう」
光陵は振り向き、肩を竦めました。
「出てどうする。おまえみたいに、江戸の片隅で細々と生きるのか。はっ、それも馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいにも程がある。言ったろう。おれはおれに相応しい生き方をするってな。おれは、おまえとは違うのさ、おゑん」
そう言い捨てて、雨の中に消えていったのです。
平左衛門が煙管を握る。
鈍く光る火皿を見詰める。けれど、見ているのは手の中の煙管ではない。何年も前の出来事だ。皺の刻まれた口元が、もぞりと動いた。
「日野家の奥方さま、ご子息はみな、亡くなったのでしたな」
「ええ、それもそれぞれに惨(むご)い死に方をしましたね。奥さまは自死……龍堂の満中陰の夜、仏間で毒をあおり、長男は患者に腹を刺され即死、次男は溺れ死んだと聞いております。それが、僅か二年足らずの間に起こったのです」
「それらは、全て光陵のやったことだと?」
「間違いなく」
「しかし、先生、日野家についての話はわたしの耳にも届いておりますが、どれも不慮の死だったのではありませんか。奥方さまは、夫の後を追うと遺書を残されていたし、ご長男は多くの患者や助手の見ている前で、治療中の気の昂った患者に刺された。ご次男は……ご次男は詳しくは知りませぬが、酒に酔って掘割に落ちて溺死したと聞き及びましたが。間違っておりませぬな」
間違ってはいない。さすがに、吉原の惣名主は、流言飛語に惑わされず、事実だけを耳に入れている。ごくうわべだけの浅い事実ではあるが。
「ええ、その通りです。ですから、日野家が呪われているだの、亡くなった患者の怨霊が取り憑いているだのと騒ぐ者は大勢いましたが、光陵を疑う者はおりませんでした」
「先生を除いては、ですな」
「あたしは、他の者よりは、光陵を知っておりましたからね。光陵は形の上では日野家の三男になります。兄二人がいなくなったことで、全てを引き継ぐこととなりました」
「しかし、家人が次々と非業の死を遂げたのです。評判はがた落ちしたでしょう。療養所どころか、江戸で医者としてやっていくことそのものが難しかったはず」
「ええ、日野の家は戸を閉じました。むろん、療養所もです。でもね、川口屋さん、日野家の蔵には、相当の金子が積まれておりました。よほどの贅沢をしなければ、人が一生楽に、悠々と暮らしていけるだけの金子がね。屋敷や土地を売れば、さらに金子は上積みされます。ああ、よほどの贅沢とは……そうですね、例えば一夜、吉原の全てを買い占めて遊ぶといった類のものですよ。どうです豪儀でござんしょう」
「さすがに言い過ぎですな、先生」
平左衛門が苦笑する。
おゑんも少し笑んでみせる。
「そうですね。それは公方さまでもできぬことかもしれません。ただ、金は力になります。光陵はそのことをよく知っておりました。この世が金を軸に回っていることをね。光陵は土地も屋敷も売り払い、莫大な金を手に大坂にでも暫く身を潜めるつもりだったようです。医者の腕前は折り紙付きですから、名を変え、医者として生き直す、それくらいのことは考えていたのでしょう」
「ところが、そうはいかなかったのですか?」
「どうでしょうかね。わかりません。あの男が大坂で何をしていたのか、あたしは知りません。ただ、片目であっても医者はできますからねえ」
「片目?」
「ええ、あたしが左目を潰しました」
平左衛門と甲三郎が顔を見合わせる。
(この章、続く)












