自分たちだけ生き残るなんて
15年間の東京暮らしに別れを告げ、ボランティア活動などを通じてさまざまな縁ができた宮城県石巻市に移住し、6年目を迎える。移住者なんてフレッシュな肩書はもう似合わないが、被災する前の街を知らないから、地元の人の話についていけないことも多い。そんな私が、彼女と話していて風通しのよさを感じるのは、彼女がもともとは自分と同じ、移住者だったからなのかもしれない。
遠藤綾子さん。東京の実家に住んでいた20歳の頃、飲食店でアルバイトをしていた伸一さんに出会った。その後、木工職人になるため、亀戸の材木店に就職した伸一さんと26歳で結婚。そのまま東京で10年間を過ごし、3人の子宝にも恵まれた。伸一さんの故郷・石巻に一家で移住したのは、長女の花ちゃんが小学生になる2004年の春。伸一さんの父が亡くなり、海の近くにある実家で母と同居することに決めたのだ。
東京育ちの綾子さんには馴染みのない土地柄だったが、元気に挨拶をして回り、すぐ人気者になっていく子どもたちの姿を見て、自分も負けまいと地域やPTAの活動に参加。伸一さんは木工職人として独立し、一家は幸せな日常を送っていた。
けれども、石巻に住んで7回目の春。壮絶な別れは突然に訪れる。
あの日、綾子さんは自宅から車で20分ほど走った内陸の病院で事務員として勤務中、大地震に見舞われた。約1時間後には沿岸部を大津波が襲う。家族と連絡がとれないまま、水が引くのを待ち、自宅近くに開かれたと聞いた避難所に到着したのは2日後だった。
そこで待っていたのは、伸一さんと姑。そして、床に寝かされた当時13歳の花ちゃんと8歳の次女・奏ちゃんの遺体だった。ろうそくの灯のもと、亡くなっているのがあきらかな我が子の姿を見た、その時の感情を綾子さんはまったく覚えていないのだと話す。