「スタートは男子も及ばないと褒めていた」
百メートルに出場したのは大会第二日目、七月三十日でした。
この日まで世間の人たちも大いに期待してくれ、また私自身も、大(おおい)に自信をもっていた百メートル競走だったのです。イギリスの競技会を終えて、七月十九日オランダのザンダムにある合宿所におちついた私は、毎日日本の選手たちと練習場に通って、楽しい練習をつづけていました。米、獨などの選手が大勢やって来る頃は、イギリスの競技場に出場した疲れもとれて、オリンピックに出場するすべてのコンデションは出来上がっていました。スタートなどは、自分自身でも、今まで日本で見たことのないくらいの立派な出来栄えで、どこの選手と一緒に練習しても少しもヒケをとらないので、すっかり平和な気持になって、その日の来るのを待っていました。
「ドイツのマネージャーは、スタートは男子も及ばないと褒めていた、アメリカのコーチが、百メートルの優勝(ウィナァ)は日本の人見だといっていた」
などと、日本の役員たちから聞かされて、どうかして二年間の苦しみを無にしないようにと、大きな覚悟をきめていました。
プログラムは大会の当日でなければ見ることができないのですが、その朝、合宿所で新聞記者から示されたものを手にとってみると、第一予選はさしたる強い選手と組んでいないから先(ま)ず安心だが、第二予選はどう転がっても苦戦だ、第二予選をうまく通れば、決勝は割にあっさり片づくと思いました。
競争開始は午後二時からだが、午後一時、その日ハンマー投げに出場の沖田〔編集部注:沖田芳夫〕選手と二人で、練習場へウォーミングアップをしに出掛けました。
心ゆくまで準備をととのえて再び合宿所に帰り、心を落着けて会場に向いました。私の更衣室はドイツの女子選手と同じところなので、毛布をかかえてマッサージャーと一しょに部屋に入ってゆくと、ドイツの選手が四名、マネージャーとマッサージャーが来ていました。
この四人の選手のうちに、私が二年間自分の敵手として、その記録百メートル十二秒三を目あてに精進したユンカー嬢がいる筈(はず)なので、あれかこれかとしばらくは白人の顔を眺めまわした末、写真でよく見るユンカーらしい人に向って尋ねたところ、果してそれがユンカーその人であった。
スプリンターというよりも、スローの選手というくらい肥えた、かなり年をとった選手でした。ユンカーも私を知っていてくれました。この人が最近十二秒一の世界記録を出した人かと思うと、知らず識らずおそろしくなって来る。数分後にはこの人と走らねばならぬかと思うと、今にもユンカーの顔が私に襲いかかって来るように見えました。
五分前にドイツの選手と共に会場に行くと、二年前に瑞典(スウェーデン)で馴染のフランスのラジドゥ、レトランドのレビン、イギリスで仲よしになったニュージーランドのロビンソン、オーストリアのエッジたちと互(たがい)に顔を合せる。
ラジドゥが馬鹿に若く見えるが、どうしたのか、よく考えてみたがわからない、二年前に二十六歳なんだから、二年後の今日(こんにち)は年はよっても若くはならない筈だがと、いらぬ心配をしていると、ラジドゥが頭の毛をいじっている。見ると奇麗な断髪になっている――ああ、あれで若くなったのだなと、大仕合を前にして、瑞典の大会でさんざんひねられたラジドゥの姿に見とれていました。この人は、ユンカーに次いで私のおそろしい一人であります。