イメージ(写真提供:Photo AC)
高齢者が高齢者の親を介護する、いわゆる「老老介護」が今後ますます増えていくことが予想されます。子育てと違い、いつ終わるかわからず、看る側の気力・体力も衰えていくなかでの介護は、共倒れの可能性も。自らも前期高齢者である作家・森久美子さんが、現在直面している、93歳の父親の変化と介護の戸惑いについて、赤裸々につづるエッセイです。

前回〈「車がないとどこにも行けない」認知症を他人事と思っている93歳の父が自損事故。昨日のことは忘れても、真珠湾は覚えてる〉はこちら

ありのままを受け入れる

シングルマザーである私は、二人の息子に不自由な家庭環境を強いてしまった申し訳なさを、ずっと心に抱いている。そのため、彼らに弱音を吐いたことはあまりない。しかし、父の世話をする心身の負担と、仕事や勉強のすべてが肩にのしかかり、気の持ちようがわからなくなっていた。涙ながらに私は、長男に電話をかけた。

30代半ばの長男は、私が落ち着くのを見計らって言った。

「問題を整理した方がいいと思うよ。おじいちゃんの世話が大変なことと、仕事が忙しいことは、別の話だよね?」
「……そういえば、そうだね」

クールで、的を射た助言なのは間違いないと思いつつも、私はなんとなくおもしろくない。

「日に日に壊れていく親を見ている辛さは、孫のあなたにはわからないのよ!」

まるで嵐が通り過ぎるのを待つような間をおいて、長男は答えた。

「わかるよ。俺だって、おじいちゃんが変わってしまうのを見ているのは、正直、辛かった」

長男は父の自損事故の少し前に、1週間ほど休みを取って話し相手をしに遠方から来てくれていた。認知症の兆候があることを目の当たりにしていたからこそ、私を諭すように続ける。

「事故のことを忘れているけど、ほかのことは覚えているでしょ。それを受け止めてあげなきゃ。俺はおじいちゃんが何回同じことを言っても、そうだねって聞いていたよ」

脳の機能が今のことを記憶できない状態になっていたとしても、忘れていないこともあるはずだ。それを聞いてあげるべきだと長男は言う。私は目から鱗が落ちた気持ちだ。

そういえば、この数年、私はずっと父の言動に上げ足を取り、常に否定していた。ありのままを受け入れようとは、考えもしなかったように思う。もしかしたら、その態度が父を頑なにさせていたのだろうか。