歌手・中森明菜を一躍スターダムへと導いた「少女A」の作詞家・売野雅勇さん
中森明菜さんは2022年でデビュー40周年。NHK総合テレビで7月9日、伝説のコンサート『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』が、第1回放送の反響を受けて再放送されました。放送直後からSNSには「生歌でCD以上の歌唱力」「今聴いても全く色褪せていない」など絶賛の声が寄せられ、開始約20分でtwitterの日本トレンド1位となり、あらためてその注目度の高さが話題に。歌手・中森明菜を一躍スターダムへと導いた「少女A」の作詞家・売野雅勇さんに、「少女A」誕生の秘話を伺います。(構成◎岡宗真由子)

中森明菜のデビュー曲は82年に発売された来生たかお・来生えつこによる『スローモーション』。しかし中森明菜を中森明菜たらしめたのは、大ヒットとなったセカンドシングルの「少女A」だ。当時の清純なアイドルのイメージを覆す危うげな世界観が人々の心を一気に掴み大ヒットを記録。その産みの親となった売野雅勇、芹澤廣明コンビは、チェッカーズのヒット作の多くを手掛けるなどヒットメーカーだが、当時は無名の存在だった。

結論めきますが、「少女A」がなかったら僕と芹澤廣明さんのコンビは存在してないと、とりあえず断言できそうです。

明菜さんの存在の仕方自体も変わっていたかもしれませんね。少なくとも3人の運命を変えるそういう歌だったことは確かです。「少女A」が世に知られることがなければ、その後のチェッカーズが20世紀後半の日本を代表するポップスターにならなかった可能性もあるかもしれません。後から振り返ると怖いです。ひとつボタンを掛け違えたらそこでゲームは終わっていた気がします。本当にあれが運命の始まりって気がしますね。

最初に「少女A」につけられたメロディはフォーク調だった。制作側の判断で、歌詞だけを残して、芹澤廣明さんの曲をあてようということになった。時間もなかったのか、レコード会社のディレクターに急かされた我々のマネジャー(僕と芹澤さんは面識はなかったけれど同じ作家事務所にいた)の判断で芹澤さんのストック曲に、僕の歌詞を合わせることになったのだけど、なぜだかそれが、ほぼオリジナルの歌詞のまま、各行の語尾だけを直す程度の修正で完成してしまったのね。奇跡的といえば、奇跡的ですね。感謝の意味も含めて、名前を記しておきます。ワーナー・パイオニアのディレクターは島田雄三さん、マッドキャップという作家事務所のマネージャーは学校を出たばかりの23歳の石黒悠さん。