サッカー漬けの日々からミュージカルの世界へ
役者の仕事を始めてから、15年が経ちました。これまで何度も挫折してやめようと思いましたし、これからも同じような経験をするはずですが、生きている限りは役者をやっていくのだろうと感じています。
僕は、祖父が三味線奏者の清元榮三郎(きよもとえいざぶろう)、曽祖父が浄瑠璃の語り手・清元志寿太夫(しずたゆう)という、いわゆる芸能の家系に生まれました。幼い頃から歌舞伎座や新橋演舞場に連れて行ってもらい、「おじいちゃんが演奏してる」と思いながら、祖父の舞台を観ていた記憶があります。
芸事に関わっている親戚は全員、祖父との会話は敬語。父は次男だったので跡を継がなかったのですが、いとこたちの厳しい稽古の話を聞いていたため、祖父から「おまえもやるか?」と声をかけられても、「なんでこんな怖い世界に入らなきゃいけないんだろう」という気持ちで(笑)。芸事の世界にはあまり興味がありませんでした。
当時夢中になっていたのは、サッカーです。高校時代は全国大会出場を目指し、朝から晩まで練習漬けの日々を送っていました。大きな変化が訪れたのは16歳の時。学校行事で劇団四季の『ライオンキング』を観に行き、初めて体感するミュージカルに圧倒され、「将来はあの舞台に立ちたい」と強く思ったんです。
大学生になると同時に、夜間の養成所でミュージカルを学び始めました。家族は大反対しましたが、なぜか僕には「大丈夫、やれる!」という根拠なき自信がありました。
とはいえ自分でアルバイトするだけではレッスン代が払えず、両親に「不足分を貸してください。半年後のオーディションに受からなかったら諦めます」と頼み込みました。そして19歳の時に劇団四季のオーディションに挑み、運よく研究所に入ることができたんです。もしもそこで落ちていたら、普通に就職していたと思います。
入団して1年が過ぎた頃には、念願だった『ライオンキング』の主役も演じさせていただきました。ただ、次第に芝居そのものを勉強し直してみたいと感じるようになり、21歳で劇団四季を退団することに。それからは、ミュージカルに限らず、ストレートプレイや映像作品にも積極的に参加させていただいています。