弟にも刷り込まれた昭和の価値観
満州から引き揚げた後、母は岐阜県で父方の祖母に育てられた。高校卒業時、大学進学を希望したが、お金がない。自分の弟を大学に進学させるため地元の銀行に就職した。「東京女子大に行かせてあげる」と私の亡き父に言われ結婚を決意したというが、妊娠、転勤でかなわなかった。というより、父はそれほど真剣に考えていなかったのだろう。
だから、私の「勉強事」にお金を出してくれたのは、右ひじのけがに加え、自身が大学に行けなかったことがあるとずっと思っていた。が、数年前、母の言葉を聞いてひっくり返りそうになった。
「あなたの家庭教師、慶応と東大の人がいたよね。どっちかと結婚してほしいと思っていたの。ママは東大の人がよかった」
「男は仕事、女は家庭」は根強かった。この昭和の価値観は弟にも刷り込まれたと推測する。弟は母への気遣いや世話を妻にぶん投げている。認知症になる数年前から弟の妻がうちに連絡をくれる頻度が高まった。花や手作りの食べ物を持ってきてくれる。かつて母はいわゆる「姑」だった。息子をとられたという意識。弟の妻について文句ばかりたれていた。「秋なのに裏がない夏の背広をまだ着せている」とか。「背広なんて自分が選んで着ればいいじゃない」と私が言うと、「女房の仕事よ」ときっぱり。認知症になり、弟の妻に感謝の念を示し、優しく接するようになったのはよかった。
私は結婚したことがないので、義理への親の気遣いの加減が分からない。が、親の世話を妻に任せ、自分は知らんふりというのは許容できない。だから今も介護者の6割超が女性なのだ。海外にいることは言い訳にならない。夫の妻に「あなたに恨みはないけれど……」と私の不快感を伝えるも、彼女はたくましくやってくる。「嫁として至らなくてすみません」とか言われると、はあ?である。「まずあなたの夫、なんとかしろよ」なのだが、それもおかしいのは分かる。