だが、そんな私に生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたものがある。それが、「本」という存在だった。
このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた私=碧月はるの原体験でもあり、作家の方々への感謝状でもある。
渇望と恐れ。未だに埋まらない心の穴
両親の虐待から逃れるために家出をして、その後訪れた後遺症により生活は破綻、そして再び牢獄へ。実家の牢獄と閉鎖病棟の牢獄、どちらがマシかと聞かれて後者を選ぶ私は、だいぶ悲しい生きものだとそのとき思った。
私の日々に一切の喜びがなかったわけではない。職場の人と心を通わせられた瞬間もあったし、「友人になれるかもしれない」と思える人との出会いもあった。だが、私の不安定さがあらゆる人間関係を破壊した。誰かに加害行為を働いたわけではない。ただ、突然音信不通になる人間が、他者と深いつながりを保つのは難しい。
会いたいときに会いたい人に会う。私にとってそれが叶うのは、物語の世界だけだった。物語の主人公たちは逃げない。私がどんな人間でも、たとえ数年会えなくても、ずっと変わらずそこに居る。
閉鎖病棟の保護室で、ふいに会いたくなったチャーリイ・ゴードンとアルジャーノン。彼らにはじめて出会ったのは、中学の図書室だったと記憶している。当時、図書委員だった私は「委員会活動」の名目のもと、毎日のように図書室に入り浸っていた。図書室では私語が禁止されている。だから、好きだった。私は誰とも余計なことを話したくなかったし、誰にも余計なことを聞かれたくなかった。
静寂と古いインクの匂いに包まれた空間で、淡い橙色の表紙一面に描かれた花束の装丁に目を留めた。『アルジャーノンに花束を』――吸い寄せられるように手に取った一冊を読み終えるのに、さして時間はかからなかった。夢中で読んでいるときの私の集中力は、周囲から見ると少し異様らしい。
“あの腕に抱かれて、いい子と言ってもらいたい、と同時に、尻をぶたれないように逃げだしたいとも思う。”
物語の主人公であるチャーリイ・ゴードンが母親に抱く感情は、少し自分と似ていた。渇望と恐れ。その両方を抱いたまま大人になってしまった私は、未だに飢えている。