領地の授受を扱っていた五大老

ではそれを念頭に置いて、以下検証していきましょう。おおよそ、こんな感じの文書が残っています。

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筑前、筑後の領地のことだが、太閤さまのご遺志にしたがって、あなたに充て行います。間違いなく領有されるべきことは以上の通りです。

慶長四 二月五日 家康以下五人の署名
羽柴筑前中納言殿
(『毛利家文書』)

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宛先の羽柴筑前中納言とは小早川秀秋のこと。彼は元々筑前・筑後を領していましたが、朝鮮出兵に於ける振る舞い宜しからず、ということで秀吉の命により、越前の北ノ庄に減封の上、国替えされていました。

この厳しい措置をなかったことにして、五大老の名のもとに、筑前・筑後の領地を元の通りに充て行いますよ(但しそれは、あくまでも太閤さまの遺志により、ということにしてある)、というのがこの文書の内容です。こうした内容の文書が何点か今に伝わっているのです。

ここで注目すべきは、領地の授受を五大老が扱っていること。しかもそれが「秀頼さまのご意志に従って」ではなく、「亡くなった秀吉の名を出しながらも五大老が主体となって行っている」ということです。