兵庫県鳴尾村西畑(現西宮市)の自宅にて。後列左から時計回りに父・紅緑、母・シナ、姉・早苗、愛子。後年、デザイナーの芦田淳はこの写真の姉妹の服を絶賛(写真提供◎佐藤さん)

母は父の息子たちに喜怒といったものはまったく見せなかったけれど、それなりによくやっていたと思います。干渉しない、いじめない。いつでも味方をする。悪く言うことはいっさいありませんでしたね。兄たちが不良になったのは自分のせいもあると思っていたんでしょう。

兄たちにしてみれば、余計な女優がしゃしゃり出てきて、母さんと呼べと言われることになったわけだから。それはやっぱり理不尽なことだと思うでしょう。でも私のことは可愛がってくれましたね。昔の不良は外で暴れても女の子にはおとなしかったですよ。

父は毎月何本も連載を抱えて、盛んに仕事をしていた時期です。書生や居候、使用人も多く、家じゅうに活気がありました。

私は父が50過ぎてから生まれた子どもだったから、めったやたらに可愛がられました。ちょっとでも泣き声をあげると、誰が泣かした、誰が悪いって大騒ぎ。だから使用人たちはみんな、父の顔色を窺って、私の機嫌ひとつで不穏な空気にもなったものです。私のワガママはこんなところに根があるようですね。(笑)

 

幼き日の佐藤さんが、寝る前に2階の書斎にいる父におやすみなさいを言うと、「おう」と返事が返ってくる。それが「全生涯での一番の幸福の時」であったとエッセイに書かれている。

――あれは本当に、ありありと思い出すことができるんですよ。「おう」と機嫌のいい声が階段の上から降ってくると、台所にいる使用人たちまでみんなほっとする。いつも怒ってる人でしたからね。

あの家には、働き盛りだった作家・佐藤紅緑の隆盛と同時に、私の幸せもあったわけです。小学校5年の時に越した家は広すぎて、人の気配が感じられなくなった。姉は女学校や洋裁学校に通っていたから、一緒に遊ぶこともないし。

私が女学校を終えるころに戦争が始まり、そこからは苦労の連続です。最初の亭主は戦争でモルヒネ中毒になり、別居しているうちに亡くなりました。再婚した亭主の大借金を肩代わりすることになったり、波瀾は続きました。

けれど夫の借金と離婚に材をとった作品で1969年に直木賞を受賞して、作家として生きていくことができたのですから、人生は捨てたものじゃないですよ。

直木賞をもらう前後から最近までずっと、締め切りに追われる生活でした。夜中に寝床でうつらうつらしていても書きたいことがひらめくから、すぐに起きて書けるように寝室と書斎をひとつにしてね。原稿用紙と文鎮と万年筆はいつでも机の上に広げてあるんですよ。仕事一筋に生きてきましたね。