決戦の場の想定は三段階変遷した

他方で、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家らの西軍諸隊は、この時期には美濃大垣城(岐阜県大垣市)に入っていた。

三成の東軍を迎え撃つ決戦の場の想定や戦略には、三段階の変遷があった。

第一段階は八月初め頃で、三河・尾張間での決戦を想定し、福島正則の説得にも意欲を示していた。しかしながら、これらは多分に希望的な想定でしかなかった。

第二段階は八月半ば以降で、三成が描く現実的な防衛ラインは、尾張・美濃間へと後退した。木曽川・長良川などの大河をたのみ、岐阜城を核にして、東の犬山城(愛知県犬山市)、南の竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)などと連携して防戦しようとするものであった。三成自身は十日に大垣城に入った。

しかしながら、二十一日に木曽川上流の河田(愛知県一宮市)の池田輝政隊と、下流の萩原・起(同前)からの福島正則隊と、二手に分かれた東軍諸将の岐阜城攻めが始まると、翌日には竹ヶ鼻城、二十三日には岐阜城が、それぞれわずか一日であっけなく攻略され、犬山城は戦わずして東軍の軍門に降った。

八月末以降は第三段階となるが、三成は大垣城を拠点としながら、伊勢方面に展開していた西軍の部隊を呼び寄せて南宮山に配置し、連携して赤坂・岡山・垂井に展開する東軍に対峙しようとした。