決戦を急ぐ決断をした家康

岐阜城攻撃の第一報は二十五日に、その攻略の報は二十七日に家康のもとに届いた。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

家康は諸将の戦功を賞するとともに、早急に出馬をするのでそれ以上の行動をやめ、東海道を上る家康と中山道を進軍中の秀忠と、「我ら父子の到着を待つように」と指示した。

こうして家康は九月一日に江戸から出馬し、その道中からも各地の諸将に頻繁に指示や要請を出しながら、十一日には清須城に着いた。

ここで徳川方の主力部隊を率いる秀忠の遅参を知るが、これを待たずに決戦を急ぐことに決し、十四日には美濃国赤坂(大垣市)に着陣し、岡山(同前)に本陣を置いた。

この徳川方の主力部隊を待たずに決戦を挑むというのは、家康にとっては大変な決断であったが、結果的には見事に奏功することとなった。