真田の掃討戦に手間取った秀忠

徳川氏の主力部隊を率いた秀忠が、会津の上杉方への備を見届けて宇都宮を発ったのは、八月二十四日のことである。中山道を西上し、美濃辺りで東海道を西上してくる家康率いる旗本部隊と合流する予定であった。

ところが、よく知られているように、西軍に与した上田城(長野県上田市)の真田氏の掃討戦に手間取ることになった。そこへ家康からの使者がやってきて、西上を急ぐようにと告げたため、上田城へは押さえの兵を残し、急遽西上に転じたが、すでに九月十日になっていた。

このため、十五日の肝心の決戦の場に間に合わなかったのであるが、この真田氏との戦いを「第二次上田合戦」と呼んでいる。