関ヶ原が合戦の場になった理由
ただ、西軍は家康西上の情報をつかんでいなかったようで、九月十四日に大垣城からわずか四キロメートルほどの岡山本陣に家康の金扇の馬印(戦場で大将の居場所を示した目印)と旌旗(せいき。葵紋章の旗七本と源氏を示す白旗二〇本)が掲げられると、意表を突かれて動揺したという。
家康の出現を受けて西軍は軍議を開き、島津義弘の夜襲策なども出たといわれるが、東軍に佐和山城(滋賀県彦根市)を衝かれることを恐れ、結局大垣城を出て関ヶ原に向かうことになった。
石田隊を先頭に、西軍の諸隊は夜の雨を衝いて関ヶ原に向かった。夜半過ぎにこれを知った家康は全軍に進発を命じ、東軍諸隊も相次いで関ヶ原に向かった。
こうして、翌九月十五日にまさに「天下分け目」の関ヶ原の合戦となった。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。