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通常の家庭では、親が子どもに道徳観念や“人として“大切なことを教える。だが、中には歪んだ感情をぶつける相手に「我が子」を選ぶ親もいる。そういった場合、子どもは親に必要なあれこれを教わることができない。私の親も、まさにそれだった。
だが、そんな私に生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたものがある。それが、「本」という存在だった。
このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた私=碧月はるの原体験でもあり、作家の方々への感謝状でもある。

前回「父からの性虐待、後遺症、閉鎖病棟への入院。のちに続く両親が定めたレールの上を歩む日々。消耗していく最中、突如訪れた幼馴染との再会」はこちら

「もう話したくない」突き放され、途切れた糸

両親の虐待から逃れたものの、後遺症により生活が立ち行かなくなり実家に連れ戻され、再び彼らのレールの上を歩む日々がはじまった。

そんな折、突如訪れた幼馴染との再会。彼は中学の頃、私の自死を引き留めた。以来、高校の途中で家出をするまで、ずっと私に逃げ場をつくってくれていた。

彼との離別は、私にとって耐え難いものだった。だが、抗う暇もなく彼は突然居なくなり、突然戻ってきた。地元にとどまれる時間は、たったの3日。

家出をした後、彼が都内に生活の場を築いていること、私と同じように通信制の高校に通っていることを再会してはじめて知った。

当時は、現在のようなスマホもLINEアプリも存在しなかった。そのため、私たちは互いのPHSの電話番号とメールアドレスを交換した。

これでいつでも連絡が取れる。どんなに離れていても、声を聴くことができる。そう思い、素直に喜んだ。しかし、実際に私たちが連絡を取り合った期間は、限りなく短かった。

私たちの実家は東北で、彼が住むのは都内。これだけの物理的距離があると、電話料金は驚くほど跳ね上がる。「かけ放題プラン」が普及する前だったため、私たちが心ゆくまで話し合うには、数万円の電話料金を支払う必要があった。

私も彼も10代にして社会人だったが、無資格の中卒者がもらえる月給はたかが知れている。挙げ句、私の話は両親からの虐待や希死念慮にまみれており、聞き手にかかる負荷が重すぎた。

ようやく会えた。ようやくまたつながれた。離れていた反動もあり、子どものように安心しきって彼の負担を考えずに全力で寄りかかっていた私は、どこまでも愚かだった。

「お前とはもう話したくない。二度と連絡してこないで」

幼馴染が電話口でそう言い放つのを聞くまで、私は彼に突き放される可能性を、これっぽっちも考えていなかった。