奇襲か、それとも正面強襲か

桶狭間の戦いでは織田軍が「奇襲」したのか、それとも「正面強襲」したのか、という話題がしばしば議論に上がります。

桶狭間古戦場公園にたつ今川義元・織田信長の像(写真:婦人公論.jp編集部)

ただし、実際に桶狭間山を歩きながら先生の解説をうかがう限り、奇襲成功のハードルはなかなか高いような印象を受けました。

先生いわく、今川軍は今川軍で、当時の石高70万石から計算するに、20,000を超える兵隊を用意するのは難しいと考えられるそう。

つまり、現場を歩きながら現実的に考えれば、両軍はさほど遠くない兵力で正面から激突したのでは、といったことが推測されました。なるほど。

そのような感じで

「私は断然、今川派!」

というガイドさんの楽しいお話を交えながら、現在の桶狭間を歩いてみると様々なことが分かりました。やはり実際に自分の目で、自分の足を使って現場を歩くことで分かるものは多い、という事実も痛感いたしました。

なお、当日は秋と思えないほどの強い日差し。昔は湿地で木や草が生い茂っていたであろう桶狭間も、今ではきれいに整備されている反面、住宅地の中では木陰もほとんどありません。

ガイドいただいた桶狭間古戦場保存会のお二方と、バスの中からお別れ。ありがとうございました!(写真:婦人公論.jp編集部)

隠れるところもなさそうなので、今なら織田軍も今川軍も丸見えだな…と思いつつ、日射病になるまえに次の目的地、長篠へと向かいました。

続きはこちら:設楽原・長篠編


「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!