石田三成陣跡

笹尾山の石田三成陣跡近くの駐車場に入ったバスから降りた我々、さっそく三成の本陣へ…。

石田三成の陣跡はいずこ(写真:婦人公論.jp編集部)

といっても、その陣跡はしっかりと小高い丘の上! しっかりと整備された階段ではありましたが、息を切らしながらしばらくのぼった先で、ようやく陣跡へ到着しました。

なお山腹には石田勢の旗とともに、竹矢来や馬防柵が再現されていて、ここでもまたテンションが上がります。笹尾山のふもとには、東軍相手に獅子奮迅の働きを見せたという島左近の旗もはためいていました。

本陣跡まで登ると、当日は快晴だったこともあり、関ヶ原を広く見晴るかすことができました。遠くには大谷吉継の本陣跡や、家康が本陣を構えたという桃配山も。

開戦した当日の早朝は霧が立ち込めていたそうですが、それさえなければ、ここから数万の軍勢がどう動いているのか、その全容を手に取るように把握できたことでしょう。

設置されていた地形図および陣形図(写真:婦人公論.jp編集部)

また、あらためて地形を見てみると、一帯が山地に挟まれた盆地になっていることがよくわかります。

先生からも解説を頂きましたが、この地域は古来より近畿地方と東海地方や東国を結ぶ東山道の要衝となっていて、”不破関”と呼ばれる関所が設置されていたそう。そして”不破関”は、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに「三関」として重要視されてきたとのこと。

ここで家康を迎え撃つに至るまでに、当然三成の軍略もあったでしょうが、そこに地理・地形的な条件も加わったことで大戦の舞台になった、という事情が推測されます。なお「関東」という言葉にも、「不破関から東の地域」という意味合いが込められているそうです。

あのあたりに本田忠勝が、こちらには宇喜多秀家が(写真:婦人公論.jp編集部)

ツアーの参加者の方々は、展望台に設置されていた図と見比べながら、どこにどの軍勢が配置されていたのか、どこで開戦し、激しい戦いが起きたのか、各々想いをはせていらっしゃいました。