(撮影:本社写真部/撮影協力:桜商店603)

 

 

 階段下の机では、アヤトが宿題を広げていた。ひかりがその机に手をついて覗き込んでいる。どうやら分からないところを教えているらしい。

 明日美の足音に気づき、ファンデーションを塗り重ねた顔を上げた。

「おはよう。早くから来てたのね」

「ええ、まぁ。おはようございます」

 応じてから、アヤトが取り組んでいるプリントにちらりと目を遣る。植物の一生についての問題だ。どうやら夏休みの宿題らしい。

「そっか、夏休み」と呟くと、アヤトが大きく頷いた。

「うん、昨日から」

「宮さん」たちや時次郎が、しきりに気にしていた夏休み。そのわけが、今なら分かる。夏休みには、学校給食がないのだ。

 真夏に向けてエアコンの修理をする余裕もないくらい、アヤトの家の経済は逼迫している。昼食にコッペパン一つしか持たされていないのも、安いからだ。さっき見たパンの袋には、二割引のシールが貼ってあった。

 母親がダブルワークをしていても、二人で生きてゆくのが難しい。特にコロナ禍ではビジネスホテルの清掃のシフトが極端に減り、家賃を払えるかどうかも怪しいくらいだったという。

 そのころに比べれば家計は持ち直したようだが、光熱費や物価の高騰により、苦しいことに変わりはない。長期の休みには頼みの綱の給食もなく、育ち盛りのアヤトは常にお腹を空かせている。

 だからこそひかりは明日美の同意も得ず、店の営業を続けていたのだ。もしかするとご飯を食べにやって来る子は、アヤトの他にもいるのかもしれない。隣のラーメン屋との間のわずかな隙間も、痩せた子供なら楽に通り抜けられる。

 発話もままならぬ時次郎が必死に「夏休み」と訴えかけてきたのは、よその子供を助けるため。そう悟るとますます、胸に苦いものが広がってゆく。

 行い自体は、称賛に値するのだろう。けれども時次郎に対しては、「どの面下げて」という思いが拭えなかった。

 子供なんて、あなたそんなに好きだった? と、時次郎に聞いてみたい。ならどうして晃斗の一周忌の法要で、あんな心ない言葉を言い放ったのか。

「いつまでもメソメソすんな、鬱陶しい。子供なんか、また産みゃあいいだろう」

 たとえ二人目ができたとしても、その子は決して晃斗ではないのに。孫の死すらも軽く扱った時次郎に、子供を救う資格なんてあるのだろうか。

「明日美さん、疲れてるんじゃない。大丈夫?」

 ああ、またぼんやりしてしまった。ひかりに気遣われ、いけないと目を瞬く。

「朝早く目が覚めて、ちょっと寝不足なだけです」

「そう? 心労もあるだろうし、無理はしないでね。いざとなったらホールは『タクちゃん』に任すから」

 優しい言葉をかけられても、素直に受け止めることができない。ここに集まる人間はどうせ皆、時次郎の味方だ。明日美の気持ちに寄り添ってくれる者など、いやしない。

 ひかりに曖昧な笑みを返し、体を斜(はす)にして机の脇をすり抜ける。

 午前九時。病院の面会時間はまだ午後の数時間に限定されているが、荷物の受け渡しだけなら窓口でできる。

「父の着替えを、届けてきます」

 そう告げて、カウンターに置きっぱなしだったボストンバッグを肩に掛ける。「行ってらっしゃい」という返事は、背中で聞いた。

「おっはようございまーす!」

 そのまますぐに、出かけることはできなかった。半分下りたシャッターを、くぐり抜けてきた男がいたせいだ。

 威勢のいい挨拶だが、求ではない。屈むと腹の肉が邪魔みたいで、「ほっ!」という掛け声と共に立ち上がる。両手には、『宮崎ピーマン』とプリントされた段ボール箱を抱えていた。

「毎度どうも、八百久(やおきゅう)です!」

 ぎょっとして、反射的に顔を背ける。

 八百久は、近所に昔からある八百屋だ。店で使う野菜の配達らしい。

 知らなかった。まさか八百久と、取り引きがあったなんて。

 そういえば八百久の親爺と時次郎は、飲み仲間だったっけ。店番を奥さんに任せ、昼間っからおでん屋で一杯やっていた。その息子は、明日美の同級生だった。

「あれ?」

 背けた横顔に、視線が注がれるのを感じる。男はまじまじと、明日美を見ている。

 間違いない。体型はすっかり様変わりしているが、八百屋のヒロシだ。

 どうか気づかず、スルーしてくれますように。そんな願いも虚しく、ヒロシは思いもよらぬ再会に顔を輝かせた。