脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

       〈八〉

 

 アヤトが一階で宿題をすると言うから、明日美は予定どおり、二階の片づけに取りかかることにした。

 そのつもりで、自宅からスリッパを持ってきている。来客がないのをいいことに、長年使い続けてきたスリッパだ。端が擦り切れたり黒ずんだりで、いい加減買い替えねばと思っていたからちょうどいい。足の裏が汚れるのを心配しなくていいので、乱雑な部屋へと分け入ってゆく。

 まずは手前の部屋の、ゴミの分別から。大量の空のペットボトルは、中を濯いでキャップとラベルを分けるだけでもひと仕事だ。細かい作業は後回しにし、ひとまずゴミ袋に詰められるだけ詰めて、洗面台の脇に置いておく。

 可燃ゴミに、プラスチックゴミ。古紙はある程度の束にして紐で縛り、どんどん廊下に積み上げてゆく。布団はいつから敷きっぱなしになっているのか、湿気を吸い、どんよりと黄ばんでいる。洗っても干しても使いものになりそうになく、粗大ゴミに出してしまおうと、丸めてこれも紐で縛った。

 あちこちに散乱している衣類はどれもこれも着古され、シミがあったり小穴が空いていたりと、まともなものが少なかった。

 この先の時次郎は、どうせ死ぬまでベッドの上だ。パジャマ以外は必要ないと割りきって、それらもどんどんゴミ袋に詰めてゆく。排泄だっておむつだから、ゴムの伸びきった下着もいらない。情け容赦なく捨てることにする。

 後から文句をつけられたって、知るもんか。そもそも時次郎が文句を言えるくらいまで回復するのかどうかも、定かではない。

 こうして時次郎の私物を根こそぎ捨ててしまったら、また「タクちゃん」あたりに「血も涙もない娘」とでも詰られるのだろう。だけど明日美は、この家になに一つ思い入れのあるものがない。今さら家族と言われても、残すべきものなど分かるはずもなかった。

 ――他人にばかり、いい顔をして。

 胸の内で不平を洩らし、明日美は唇を噛みしめる。

 時次郎は、いつもそう。娘を家に放置しながら、外では「陽気で豪快な時ちゃん」とちやほやされていた。その延長なのか「まねき猫」を引き継いでからは、なんとアヤトのような三食まともに食べられない子供を引き入れて、無償で食事を提供していたという。

 求が言うには、「俺もキョウヤもアンリも、元は時さんに食わせてもらってたガキなんだよ」とのことだ。かつては求も、時次郎がいなければ生き延びられたかどうかも怪しいほど、深刻な状態だったらしい。

 だからこそ彼は時次郎にひとかたならぬ恩義を感じ、憧れてもいるのだ。

 まだ会ったことはないが、キョウヤとアンリも求の招集に素直に応じ、平日のシフトに入っている。二人もきっと、求と同じ気持ちなのだろう。

 よその子供のことは気にかけるのに、なんで――。

 明日美だってできることなら父親を尊敬したかったし、愛したかった。時次郎はそれに相応しい振る舞いを、当の娘にだけ見せなかった。

 目頭がじわりと熱くなり、明日美は慌てる。あの男に、まだなにか期待しているのだろうか。

 私だって、もっと可愛がってもらいたかった。

 そんな想いを、四十二にもなって抱くなんて。

 馬鹿馬鹿しいと、首を振る。自分はもうとっくに、おばさんだ。それなのにタマネギみたいにペリペリと外皮を剥いてゆけば、芯のところに一人ぼっちで膝を抱える少女がいる。愛されたかったと、泣いている。

 階下から話し声がして、明日美はハッと正気づく。いつの間にか、片づけの手が止まっていた。

 物思いに耽っているうちに、ひかりが出勤したのだろう。女性にしては低い笑い声が聞こえてくる。声の出所は、階段のすぐ下だ。

 一応、挨拶をしておかないと。衣類を詰めたゴミ袋を置き、明日美は洗面台で手を洗う。汚れた鏡を覗き込むと、目元の弛んだ中年女性が陰鬱に見つめ返してきた。