「哀れみや悔恨、そして理想の母の姿。そんなものを駆使して、たくさんの母の詩を書いた。そう思うと、私には『おかあさん』のブームは、ある種のイリュージョンのように思えます」(撮影◎本誌編集部)

2番目の妻の窮地は荒療治で

八郎さんは3度結婚。女優だった2番目の妻と暮らす本宅に踊り子の恋人を出入りさせ、仕事を手伝わせたとの逸話も。

――本宅というのがどこなのかもわからない(笑)。その時その時の気分なのね。まぁ、あの時代だって、世間はあきれてたことでしょう。

とにかく八郎がそうするって決めたら、そうなるんですよ。女たちが受け入れて平気でいるから、周りも認めてしまう。当時の芸能の世界の人たちには、世間の規範にとらわれず思うままに行動するところもあったのでしょう。たいていの女なら「私はこんな立場イヤだわ」ってことになるんだけど、そうならない。彼女たちは素直に、穏やかに、八郎の想いに応えていたようですね。

2番目の妻のるり子さんは麻薬中毒でした。麻薬中毒っていうのは治らないんですよね。でも中毒になったからといって、別れるようなことはありませんでした。

普通だったらお医者さんに委ねるところだけど、八郎はるりさんが麻薬をやった兆候に気づくと、横っ面を張ったり、蹴り倒したり、半死半生の目に遭わせるの。生きるか死ぬかの切実さに、るりさんも必死になります。その荒療治で中毒が治ったんです。うちの母も感心していましたね。「ハッチャンのおかげだよ。そうでないと廃人になってたよ」って。

雑司ヶ谷霊園の八郎さんのお墓。墓石には「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」と刻まれている(撮影:本誌編集部)

最晩年まで仕事をし、亡くなる当日もエッセイを書いて心臓発作で急逝した八郎さん。今は雑司ヶ谷霊園に眠っています。

――八郎の生みの母も、同じお墓に眠っていますよ。もともと雑司ヶ谷には、父と八郎の母の間に生まれて幼いうちに亡くなった子たちが眠っていた。八郎の母が若くして亡くなったとき、八郎が生母をそのお墓に入れたのです。

父・紅緑が亡くなった時は、私の母が文京区・弥生町にあった八郎の住まいからほど近い本郷の喜福寺にお墓を建てました。母が私と暮らす世田谷の家からは遠かったんだけど、母が「いくらハッチャンでも目と鼻の先にお父さんのお墓があったらお参りしてくれるだろう」と願ってね。けれど八郎はただの一度も行かなかった。だからと言って、誰も驚いたりあきれたりしないのが佐藤家です。


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