神様のような大先輩の早逝

ステージでバレエを踊る時の「美」に対して、徹底的にこだわっていた飛鳥明子は、むくむからと、レッスンの休憩時間やステージの幕間では、テーブルに脚を上げていた。少しでも脚が美しく見えるように、ビール瓶でふくらはぎをマッサージしていたという。

そんな先輩に、プロフェッショナルの厳しさを学んだ静子は、後年、OSSK(大阪松竹少女歌劇団)を退団して独り立ちした後も、芸に対してはストイックであり続けた。

その姿勢と、天性の才能がさらに大きく開花するのは、もうしばらく後、1938(昭和13)年、松竹楽劇団に参加して、生涯の音楽パートナーとなる服部良一と出会い、帝国劇場のステージに立ってからのことである。

飛鳥明子は、前述のように「桃色争議」の争議団長としての責任を負って退団。その後、結婚をして、振付師として後輩の育成にあたっていたが、1937(昭和12)年、29歳の若さで、病気で亡くなった。神様のような大先輩の早逝を誰もが惜しみ、涙した。

※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。


笠置シヅ子ブギウギ伝説』(著:佐藤利明/興陽館)

2023年NHK朝の連続テレビ小説、『ブギウギ』の主人公のモデル。
昭和の大スター、笠置シヅ子評伝の決定版!半生のストーリー。

「笠置シヅ子とその時代」とはなんだったのか。
歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて「ブギの女王」として一世を風靡していく。彼女の半生を、昭和のエンタテインメント史とともにたどる。