子どもの記憶

三菱商事に勤めていた父・養老文雄が、二児のいた10歳年上の小児科医である母、静江と結婚、鎌倉で新しい暮らしを始めたのは1936(昭和11)年で、翌年に私が生まれました。名前は「孟子」の「孟」を使って孟司です。

『なるようになる。――僕はこんなふうに生きてきた』(著:養老 孟司/中央公論新社)

どうして虫好きになったのかって、よく聞かれますが、好きに理由はありません。ものごころがついたときには生き物好きでした。

両親が初めて鎌倉の由比ヶ浜の海岸に僕を連れていったとき、行方不明になり、大騒ぎになったと後年、聞かされました。さんざん捜すと、僕は滑川の河口近くに座り込み、カニが穴を掘っているのをじーっと静かに見ていたそうです。

最初の記憶は、日本が米ハワイの真珠湾を攻撃した日のラジオ放送を聞いたことのような気がしますが、これがはっきりしない。

1941年12月8日、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」とラジオは伝えた。

子どもの記憶って、大きな事件があるとその前の記憶が消えちゃう。僕の場合、父が死んだときのことは、まるで映画のワンシーンのように一コマ一コマが脳裏に焼き付いていて、突然浮かんできたりしますが、それ以前の記憶は一生懸命考えても出てこない。