記憶の始まりは父の死

思い出に残る一つの風景は、結核の療養のため自宅で寝ていた父のベッド脇にあったガラガラです。どうして赤ちゃんの玩具があるのか不思議でじっと見つめていると、私の視線に気づいた父が、「これを鳴らすと、看護婦さんが来てくれるんだよ」と答えてくれました。

声を出しにくいからガラガラを使っているんだと聞いて、「ああ、そういうことか」と思ったから、よく覚えている。その頃から解釈できると納得するタチだったんでしょう。理屈っぽいから(笑)。

ガラガラはオモチャなのに、僕のものじゃないのはおかしいという思いがあったけれど、その気持ちを父にぶつけてよいものか、遠慮があったようにも思う。

どんな感情にもはじめがあるはず。喜怒哀楽みたいな本能的なものは別として遠慮とか気遣いとかは社会的感情でしょう。それを感じた最初の機会でした。

もう一つの光景は、とても天気がいい日で、日の当たる窓際のベッドから半分起き上がった父が、飼っていた文鳥を逃そうとしている姿です。じっと見ていると、「放してやるんだ」と言う。それが父の言葉では最後の記憶です。なぜ、文鳥を放すのか、4歳の私には不思議でならない。ガラガラとは逆で、納得できなかったから記憶にあるんでしょうね。

いつだったか、そのときのことを母親に確認すると、「あれは、おまえのお父さんの死んだ日の朝だった」そうです。母は「お父さんは自分の死期を悟ったのかもしれないね」と語っていました。