老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 達也には、DX――識字障碍(ディスレクシア)がある。特にローマ字の読字が難しい。日本語の読み書きには大きな支障がないので、ほとんどの人たちには気づかれないが、涼音はいち早くそのことを見抜いた。兄の直樹(なおき)が教育系の出版社に勤めていて、家にも学習障碍に関する教材がたくさんあったため、リスニングやスピーキングができても、ローマ字の綴りを単語として認識できないケースを知っていたのだ。
 かつて外資系ホテルで〝多様性(ダイバーシティー)枠採用〟と陰口をたたかれたことのある達也は、桜山ホテルのシェフ・パティシエになって以来、自分に障碍があることを、頑なに隠していた。
 そのためサブ・チーフであるスー・シェフの山崎(やまさき)朝子(あさこ)とも一定の距離を置き、ぴりぴりと神経を張り詰めさせていた。
〝涼音に指摘されなければ、俺は自分と向き合う勇気を持てなかった。俺はこれからも、ずっと涼音と一緒にいたい。二人で最高のパティスリーを作りたい〟
 達也は真剣な表情で申し出た。
 自分と結婚し、パティスリーの「マダム」になってほしいと。
 いささか唐突ではあったけれど、単刀直入な物言いが、達也らしいと感じられた。だから、涼音も素直に応えた。
〝喜んで〟
 本当の舞台に上がろうとしている達也が、自分をパートナーに選んでくれたことが純粋に嬉しかった。
 あの日、涼しい風を頬に受けながら、達也の胸にもたれて眺めた美しい夕景を、涼音はこの先、一生忘れることがないと思う。

 

 


 着替えを終えた涼音は、よい匂いが漂うリビングへと入った。
「うわあ、美味しそう……」
 テーブルの上には、夏野菜がたっぷり入ったミネストローネと、茹でた海老とサーモンのオ・ブールが並んでいる。オ・ブールとは、溶かしたバターを絡める調理法だ。バターでソテーするのは日本でもお馴染みだが、フランスではバターをあえ物としても使うのだ。
「大変だったでしょ? 達也さんだって、今日は内装の打ち合わせがあったのに」
「いや、たいしたもの作ってないから」
 プライベートではまったく料理をしないというシェフもいるようだが、達也は割と気軽に日々の料理を作る。試作の意味もあるのかもしれないけれど、結局のところ、調理が好きなのだろう。
 もっとも、これで「たいしたもの作ってない」と言われてしまうと少々プレッシャーなのだが、涼音が作る素人料理も、達也は淡々と口にする。
「冷めないうちにどうぞ」
「いただきます!」
 両手を合わせ、涼音は箸を手に取った。
 まずは賽の目に切った夏野菜の彩りが美しいミネストローネから。野菜の甘みがじんわりと口中に広がり、思わず溜め息が漏れた。
 レモン汁の酸味とディルで香りをつけ、隠し味にほんの少し醤油を垂らしたオ・ブールも、ご飯に合う美味しさだ。茹でたての海老にたっぷりとバターソースを絡め、一息に頬張った。
「どう?」
「最高!」
 涼音は満面に笑みを浮かべる。
「これ、もしかして、グラスフェッドバター?」
「御名答。北海道のを取り寄せてみたんだ」
 南仏の野菜や果実の美味しさにも驚いたが、フランスの乳製品の美味しさもまた、忘れ難いものだった。
 達也の休みに合わせ、一度だけフランス北部にモン・サン・ミッシェルを見にいったことがある。その帰りに寄ったノルマンディーの街のレストランで、潮風を浴びた草原の草を食べて育った牛の原乳から作る、グラスフェッドバターをひとなめしたとき、涼音はあまりの美味しさに悶絶しそうになった。
 パンでもスープでも、このバターを一さじ加えただけで、たちまち力強い味に変わる。
「ノルマンディーの漁村のグラスフェッドバターに、近い製法で作られているらしい」
「うん、確かにノルマンディーで食べたのと同じ味がする」
 フランスではバターは油脂ではなく、調味料と考えられている。料理の味を決める大切な食材なのだ。
 フランスのパティスリーには、生菓子や焼き菓子の他に、キャロットラペやパテのようなちょっとした総菜が置かれている店が多い。達也は現在、総菜作りにも力を入れていた。
 帰国当初、達也は南仏のイメージに近い、房総や伊豆で物件を探していたが、たまたまこの商店街に理想的な居抜き物件を見つけ、結局、東京で不動産を取得することにした。
 この古民家風の一軒家は、かつてフランス人のマダムが料理教室を開いていた家だ。一階が本格的な厨房を持つ料理教室で、二階が居住スペースになっている。高齢となったマダムがフランスに帰国することになったため、達也が厨房機器ごと、買い取りの交渉を進めたのだ。
 観光地ではなく、商店街に物件を求めたのは、実は涼音のアイデアでもあった。会社からの帰り道に、美味しいケーキや総菜を買えたらどんなにすてきだろうと、かねてから考えていたのだった。
 それはホテルのラウンジで余ったスコーンやキッシュを持ち帰ることができていた、自らの経験から生まれた着想だ。
 店舗スペースと居住スペースの玄関が分かれているのもよかったし、すぐ傍に大きなムクロジの保存樹があることも気に入った。
 現在、二人は来年のオープンに向けて、少しずつ準備を始めている。
 これまで内装の案件はすべて達也に任せていたが、桜山ホテルでの任務をひとまず終えた涼音も、今後は諸々の交渉事に顔を出していくつもりだ。
 この先、涼音と達也は公私を共にするパートナーとなる。

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